2019年

10月

20日

276)王手! 将棋の日本史

10月19日(土)から、徳島城博物館にて、「王手! 将棋の日本史」という特別展が開催されています。弾丸旅行でしたが、開幕日の朝一番に見に行ってきました。大橋家の未公開文書が多数展示されており大変よかったです。図録も学術的な資料集ということがたぶん意図されているようで、こちらも大変いい冊子です。将棋博物館があった頃、私はまだ将棋史とは無縁でしたので、これほど多くの将棋史関係の展示は見たことがありません。

 

最近はブログには研究の進展をほとんど書いていませんが、非常に進んでいます。そういう中で、今回の展示でもいくつか気づかされたことがあります。それをごく手短に覚え書きしておきます。

 

まず、学芸員のMさんが朝の説明会で話されていた、秀吉が、王将を大将にあらためさせようとしたという古文書の記述の件、これまで気づいていなかった新しい観点を聞かせてもらいました。「玉将」を大将にしてほしいとは一言も言っていないのだという指摘です。この意味は非常に大きいと考えます。秀吉の時代でも、玉将はなお、意識の上では天皇だったという可能性がありそうです。

 

そうでないとすれば、秀吉は王将(おうしょう)を大将(おおしょう)という別の字にしたかったという見方もできるでしょう。王将(おうしょう)を大将(たいしょう)に、という話は、後世の誰かが、発音を間違えたのではないかと。

 

ところで、私の周辺では、摩訶大将棋(まかだいしょうぎ)ではなく、摩訶大将棋(まかおおしょうぎ)です。染み付いてしまった「まかだいしょうぎ」という呼び方(間違った呼び方)は、私自身もまだふと出てしまうことがあるのですが、「まかおおしょうぎ」で確定です。以前のコメントで大大将棋の読み方を聞かれたまま、コメント欄には入れていませんが、読むとすれば、だいおおしょうぎになるでしょう(そもそも、大大将棋という名称自体、平安時代の名称ではなく、後世の可能性が大きい)。

 

さて、帰りのバスの中、図録を見つつ、この特別展のタイトルの「王手!」という語句は、研究室の研究内容とは、全く相容れないものなのだなあということに気づきました。摩訶大将棋に王手は存在しないからです。

 

いい特別展を見たあとです。だから、自分たちでも、独自のきちんとした展覧会をやってみたいと思ってしまいました。それは、ちょうど新年の1月5日に、グランフロント大阪で、摩訶大将棋展2020が決まっているということからかも知れません。

 

この秋、関西から徳島に特別展を見に行かれる予定の方は、是非、来年1月5日、グランフロント大阪の特別展もいかがでしょうか。「王手! 将棋の日本史」とは、全く別の観点の将棋史を紹介させていただきます。王手のない将棋が、平安時代の日本には存在したという考え方です。それは、王手のあった頃の摩訶大将棋よりも、さらに面白い将棋となっています(つまり、摩訶大将棋の解明は正しい方向に進んでいるのだろうと考えています)。この将棋も是非体験してみて下さい。

 

長く書きすぎて、特別展で気づかされた点、本稿ではひとつしか書けませんでした。。。

 

0 コメント

2019年

9月

19日

275)古代盤上遊戯研究会2019(ご案内)

しばらく投稿しておりませんでした。このご案内も前日での投稿となっています。すいません。それといくつかお問い合わせも届いていたのですが、全然返信できておりませんで失礼いたしました。明日、研究会が終わりましてから、ご連絡させていただきます。

 

発表は次の3件です。その後、遊戯盤の展示、ディスカッションのセッションがあります。

 

学会のMLでは案内していますが、一般のご案内はこの投稿が初めてではと思います。

 

 

 

セッション1(14:05〜14:50) 座長:木子 香(大阪電気通信大学)

 ○ 陸博の変遷について

   孔 維民(毫州学院(中国)) 同時通訳:寺田 則子(大阪電気通信大学)

 

セッション2(15:00〜16:00) 座長:植野 雅之(大阪電気通信大学)

 ○ 古代中国における雙陸の遊戯方法

   木子 香

 ○ 大型将棋に見られる陰陽五行

   高見 友幸

 

展示紹介及びデモプレイ(16:00〜16:30)

 

ディスカッション(16:30〜17:00)

 ○ 古代盤上遊戯研究の今後

 

私の発表のタイトルは、大型将棋に見られる陰陽五行となっていますが、これは少し前に提出したタイトルで、明日の発表は、陰陽五行については当然話題にしますが、陰陽五行が中心の話題ではなく、呪術としての大型将棋のことが中心となります。

 

内容は、大型将棋の盤と平安京の対応の話、それを支持する将棋の古文書の話(学会発表の話題としては初めてになります)、これに関連して譜双の図の謎の記述(私には謎でした)が、うまく解釈ができるという話をします。大型将棋が南面する天皇の前で指されたように、中国の盤双六(雙陸)も天子が南面する前で指した呪術だったのかも知れません。大型将棋も、盤双六も、古代においては、対局する向きがきちんと定められていたであろうと想像します。つまり、ピュアな遊戯ではなかったということの現れです。

 

0 コメント

2019年

6月

14日

274)平安京摩訶大将棋 E :ゲームの概要

01:

ゲーム画面は対局モードと観衆モード(e-sportsモード)で異なります。駒と盤での対局の場合、対局者は東西に座り(つまり、自陣敵陣は東西に分かれる)、対局を見る人(陰陽師に相当)は南面して座ります。これに対応し、観衆モードの画面(図1)では、駒は左右に動きます(対局モードでは、通常どおり、自陣が下、敵陣が上で、駒は上下に動きます)。

 

02:

将棋盤は、第二次平安京に則り、横19マス縦16マスで、駒はマスの中に置きます(図2)。第一次平安京に則る場合は、駒は囲碁や中国象棋と同じく交点置きで、将棋盤は横19目縦17目になりますが、平安京摩訶大将棋Eでは、交点置きは採用せず、第二次平安京を盤として使います。なお、現状、古文書で確認できるのは、横19目縦17目という記述のみです。象戯圖の「縦横19目」、諸象戯圖式の「縦横各19間」という記述は間違いであろうと考えています。

 

03:

勝敗を決める駒は玉将ではなく、不成の駒(奔王、龍王、龍馬、師子、狛犬)です。不成の駒が成りを実現する状況(その直前)で、対局は終わります(つまり、駒を裏返す必要がないため、これらの駒には成駒は存在しません)。なお、古文書によれば、奔王、摩羯、鉤行、師子、狛犬を不成とする場合があるようですが、平安京摩訶大将棋Eでは、これを採用していません。この古文書では、龍王、龍馬が、飛鷲、角鷹に成りますが、これを平安時代後半のルールと推定しました。

 

04:

古代の大型将棋では、居喰は師子、狛犬の踊りの機能と連動して定義されており、平安京摩訶大将棋Eでは、これを採用しました。師子と狛犬は自身の動く範囲の敵駒を居喰で取ることができます。ただ、古文書では、師子と狛犬は、居喰でのみ敵駒を取ることができると書かれています(つまり、動く場合には、駒を取ることができません)。

 近世の中将棋の居喰は、隣接する駒を動かずに取るという機能ですが、それ以前の中将棋では、そうではなかったようです。象戯圖には、居喰の説明として「師子居喫、一枚二枚可随時」としかありません。ただ、この二枚の居喰はともに隣接した駒を居喰いするのではないことに注意して下さい(師子、狛犬が居喰できる敵駒の位置は図3参照のほど)。強力な駒です。まさに師子と狛犬!

 

 

(この稿、日々追加していきます)

 

2019年

5月

31日

273)まだ将棋史研究者には知られていない古文書

短い投稿になりますが、やはりお知らせしておく方がいいかと思いました。

いろいろな記述があります。次の4点、注目下さい。

 

1)摩訶大将棋の盤:向17目横19目という記述があります。

大型将棋の盤が正方形ではないとする初めての記述例です。

17目を17マスと見てもいいでしょうが、摩訶大将棋の復刻本(第5章)で書きましたとおり、目を文字通り、目=交点とみれば、17目19目は第一次平安京の街路となります。

 

2)麒麟・鳳凰が踊り駒である旨明記されています。

この件、摩訶大将棋の復刻本(第3章)では、象戯圖の記述からの解読で、間接的な導出でした。この古文書ではっきりしました。摩訶大将棋や大将棋の麒麟が踊り駒ではないという人はもういなくなるのではないでしょうか。

 

3)三目踊りの説明に、三手続けて仕うとあります。

摩訶大将棋の復刻本(第3章)どおり、「踊る=くり返す」という解釈で確定です。なお、鉤行は飛車を二手続けて仕うとあります。

 

4)狛犬は居喰いする旨書かれています。

諸象戯式の文面からの類推どおり(復刻本の第6章)、師子と狛犬は同等の機能をもつことで間違いなさそうです。

 

2019年

5月

12日

272)亀卜に使われる亀甲の形:将棋の駒はなぜ五角形か

今日5/12の新聞に亀卜の記事が出ていましたが、そこに掲載されていた亀甲の写真を見て、将棋の駒だと勘違いした人がいたのではないでしょうか。亀卜に使う亀甲は、将棋の駒の形に非常によく似ています。それは今の将棋の駒の形にではなく、平安時代の駒の形です。たとえば、旧興福寺出土の玉将、金将、銀将や中尊寺出土の飛龍の駒の形です。次の特徴に注目して下さい。

1)駒の頂角の角度

2)駒の側面に傾きがない(底角がほぼ直角)

3)駒の縦横比

 

将棋の駒がなぜ五角形なのかは、現状、大きな謎なわけですが、亀卜に使う亀甲の形が、将棋の駒の形のルーツだった可能性は大いにあり得るでしょう。それは、原初の将棋が、ピュアな遊戯ではなくて、呪術のツールだったことのひとつの証にもなります。亀卜は陰陽五行に基づく呪術で、使われる亀甲には、木火土金水の五行に従った横線が記されます。陰陽五行に基づいて作られている将棋が、亀卜の何らかの特徴を取り入れたとしても不自然はありません。また、天皇が亀卜から国家の重大事を占ってきたことは、天皇がどういうときに将棋を見たかということともよく対応しています。

 

新聞記事には、使われる亀甲が「将棋の駒に似た形」と表現されたりしているわけですが、正確に言えば、将棋の駒が「亀卜で使われる亀甲の形に似ている」ということではないかと思う次第です。

 

ともあれ、古代日本の将棋が遊戯だったという確証は今のところありません。一方で、将棋が呪術のツールだったということは、明月記や長秋記にいくつか見え隠れし、また、駒と陰陽五行との強い関係性、将棋盤と平安京の条坊との一致からも導くことができます。中世以降の将棋は遊戯だったことに違いありませんが、古代の将棋を遊戯という観点だけから見るスタンスには要注意でしょう。

 

(亀卜に使われる亀甲の写真を以下に掲載する予定です。許可が取れ次第追加します)

 

前稿のコメントや、直接のお問い合わせをそのままにしていますが、すいません、しばらくお待ち下さいませ。

 

0 コメント

2019年

5月

03日

271)平安京と将棋盤:小将棋が横9目・縦10目だった可能性

大型将棋の駒の動きは古文書の記述と大きく違っており(特に、大大将棋)、駒の成りについても同じくです(特に、大将棋)。このあたりの状況は、摩訶大将棋の復刻本にて大きく取り上げています。通説と大きく違うのは、将棋盤のサイズです。また、勝敗のルールも違うだろうと思っています(玉将が勝敗を決める駒ではない可能性大です)。

 

大型将棋や将棋の起源についての通説は、たぶん、根本的な見直しが必要なのではないかと考えます。通説の根拠を論文や単行本から探してみても、その根拠・主張はかなり希薄です。たとえば、小将棋(=平安将棋)の盤のサイズは、8×8、8×9、9×8、9×9といろいろな説がありますが、その根拠をきちんと説明できる説があるのかどうか。平安大将棋の将棋盤が13×13マスだとされるのも同様で、根拠なしと言ってもいいくらいです。

 

こういう現状ですので、多少なりとも根拠があるという点で、摩訶大将棋の復刻本にも分がありそうです本稿、小将棋の将棋盤のサイズについてです。投稿270)の補足にて、平安京=将棋盤説の話題を取り上げましたが、本稿はその続きとなります。

 

平安京=将棋盤説をとる場合、歩兵の間隔は4マスになります(復刻本では図73と図74)。本ブログでは、投稿260の図(小将棋と平安大将棋のみ)となります。結果として、小将棋は、横9マス・縦10マスという結論を導いたわけですが、実は、同じ結論を、平安京の条坊の数からも導くことができるのです。

 

平安京の街路と小将棋の初期配置.
平安京の街路と小将棋の初期配置.

右図は、平安京の街路の交差点に小将棋の駒を並べたものです。摩訶大将棋と大大将棋については、平安京の1保を盤の1マスとみなしましたが、右図では、1坊(=4保)を1マスとみなしていることに注意して下さい。また、右図は、第一次平安京であり、大内裏(上部中央のうす茶の部分)の南北の長さは2坊となることにも注意して下さい。

 

小将棋の駒は、大大将棋の場合のように、東西に並ぶことになります。また、摩訶大将棋の復刻本でも取り上げましたが、大大将棋の駒は交点置きです。これと同じく、小将棋の駒も交点置きだとすれば、平安京(横9目)は小将棋(横9駒)の将棋盤にすることもできます。

 

マス置きとしてもよいのではないかと考える方もおられるでしょう(小将棋は横8マス・縦9マスの将棋盤を使ったということにする)。もちろん、そのような仮定もあり得るわけですが、他のいろいろな対応関係を考慮すれば、交点置きの方が妥当でしょう。たとえば、次の観点を重視すべきとしました。

 

1)二中歴の小将棋の記述では「目」という語句を使っています(目は交点を意味する)。たとえば「金将不行下二目」等々。小将棋の駒は目の上に置かれ、目の上を進むと考えるのが妥当でしょう。

2)象棋の成立時期は未だ不明ですが、ともあれ、象棋の駒は「目」に置かれます。そして、象棋の盤は、本稿で考えているとおり、横9目・縦10目です。日本と中国の将棋で、この一致は重要です。

3)大大将棋も、初期の摩訶大将棋も、駒は「目」に置かれています(復刻本の第5章を参照されたし)。

 

本稿は、投稿270)の補足(05/02の補足)をさらに補足するということで書いています。本稿と関連する件、まだ謎が多く、フロンティアの領域です。復刻本には入れませんでしたが、近々の論文には書きます。謎の詳細はまた後日の投稿としますが、考察されるべき点の主要部は次のとおりです。

 

1)摩訶大将棋 --> 大大将棋、摩訶大将棋 --> 小将棋という成立プロセスは、駒の動きや陰陽五行との関連を考えればほぼ間違いなかろうと思いますが、摩訶大将棋 --> 大将棋 --> 平安大将棋 --> 小将棋という成立プロセスは、現状、確定とまでは言えないでしょう。

 小将棋が盤の「目」を使う将棋だとすれば、それは大大将棋同様、かなり古い将棋ということになります。マス置きの大将棋と、交点置きの小将棋のどちらが古いのか。

 

2)大将棋が成立する前に、小将棋が成立したという場合、大型の将棋(摩訶大将棋のような)と小将棋の2種類の将棋(2種類の呪術のツール)の並存した時期があったのかも知れません。

 

3)上図では、平安京の将棋盤に、二中歴の初期配置を使い、二中歴の小将棋の駒を置きました。これが、当初よりそうだったのかは不明です。上図の将棋盤(平安京)は、9世紀半ばのものです。

 

1 コメント

2019年

4月

21日

270)摩訶大将棋の復刻本4(全般:補足・Q&A・正誤表)

できる限りサポートさせていただきます。

不明な点ありましたら、コメント欄またはメールにてお願いします(大大将棋関連は前稿269の方でお願いします)。

補足と正誤表も随時ここに追加していきます。

 

補足:

2019/05/02 平安京を摩訶大将棋の将棋盤と見なすという考え方についての疑問をいただきました。単なる偶然なのではないかという問い合わせです。この点について補足します。回答が大変遅くなりすいません。

 本では第5章です。もちろん偶然だという可能性もありますが、偶然なのか必然なのかという2択だとすれば、必然という答えが圧倒的多数ではないかと考えます。平安京と将棋盤との関係性は5点あり、本では次の4点を取り上げました。

1)駒が陰陽五行説(陰陽道)で構成されていることを認めるとすれば、陰陽道に基づく平安京が将棋盤ときれいな対応を見せることに何の不思議もない。

2)長安と象棋盤のきれいな一致(横9目)

3)平安京と大大将棋の盤のきれいな一致(横17目:駒は東西に並ぶ)

4)平安京と摩訶大将棋の盤のきれいな一致(横19目または横19マス:駒は南北に並ぶ

 回答の概要は上述のとおりですが、残る1点と合わせて、投稿271)で詳細します。そちらを参照下さい。摩訶大将棋との対応だけであれば、偶然ということになるでしょうが、大大将棋ともいい対応を見せていますし、小将棋ともいい対応を見せています(投稿271を参照のこと)。また、象棋が長安の条坊と対応しているという点もあります。偶然としてすぐ却下するべきではなく、平安京との関係性の有無を熟考すべき問題と考えます。

 

正誤表:

2019/04/21 摩訶大将棋の駒の名前で摩羯となっている箇所があります。象戯圖では、「かつ」の漢字は、羊偏でなく、魚偏です。同じく、大大将棋で、奇犬となっていますが、象戯圖では、「き」の漢字は、口偏が付きます。

 

0 コメント

2019年

4月

21日

269)摩訶大将棋の復刻本3(大大将棋専用:補足・Q&A・正誤表)

できる限りサポートさせていただきます(大大将棋の問い合わせが多いですので、大大将棋だけ別にしました)。

大大将棋関連で不明な点ありましたら、コメント欄またはメールにてお願いします。

補足と正誤表も随時ここに追加していきます。

 

補足:(後日書きます)

 

正誤表:

2019/04/21 駒の名前で「奇犬」となっていますが、象戯圖では、奇の漢字は口偏に奇となります。

 

0 コメント

2019年

4月

10日

268)摩訶大将棋の読み方:まかおおしょうぎ

大将棋は「おおしょうぎ」と読まないといけません。平安時代の読み方に従うとすれば、だいしょうぎと読むのは間違いでしょう。同じく、摩訶大将棋も「まかおおしょうぎ」という呼び方になります(平安時代に摩訶大将棋という名前の将棋が、象戯圖の記載どおりあったとすればの話ですが。)

 

もちろん、読み方は時代で変わっていくでしょうから、摩訶大将棋をまかだいしょうぎと読んでもかまわないと思いますが、本ブログでは、平安時代の呼び方を使っていこうかと。ですので、これからは、まかおおしょうぎと呼ぶことになります。

 

この件どちらでもいいという方には何も問題のない話です。ただ、呼び方にもこだわる方は、以下をお読み下さい。大将棋=おおしょうぎよりも、もっと考察すべき件は、小将棋の方の読み方で、小将棋=しょうしょうぎではないと思われます。たぶん「おしょうぎ」と読むのでは。

 

摩訶大将棋の復刻本に掲載しましたとおり(図57)、二巻本色葉字類抄には、大将基馬名のリストがあります。このリストは「ヲ」の分類の箇所にあります(このリストを、上巻上の最後に挿入されているとする書籍もありますが、冊子の最後を意識したものではありません)。大将基馬名のあとに小将碁馬名が続きますので、駒のリストというくくりで、別件として挿入されたものだと思ってしまってましたが、そうではありません。あくまでも、色葉字類抄の編集指針のとおり、イロハ二ホヘト・・の順で言葉を集めています。つまり、小将碁馬名も「ヲ」にはいるべきものです(厳密には「オ」であるべきですが、ヲとオの分類の入れ替わりは結構あるようです)。

 

というわけで、大将棋はいしょうぎではなく「おしょうぎ」、小将棋はょうしょうぎではなく「しょうぎ」です。

 

ところで、上巻下の最後にも、一見別のテーマと思われる挿入があります(よくご存知の方は別だと思わないですが)。「牧」という項です。これは「ム」の分類の箇所にあります。

牧はムマキと読みますので、ムで問題ありません。上巻上の場合と同じです。冊子の一冊目、二冊目とも、写本の奥書の位置がおかしいのでしょう。

 

さて、奥書の位置がおかしいとみれば、大将基馬名も小将碁馬名も牧も、原本に記載されていたものでしょう。ところが、大将基馬名が原本からありましたと言ったところで、別の観点から、つまり、将棋史に関する自説との兼ね合いの観点から、反論される方もおられるでしょうから、ここでは、「牧」のリストの方を問題にしましょう。

 

牧のリストは、勅旨牧のリストです。時代的には平安時代であり、後世の写本の際に挿入されたものとは、全く考えられません。これは、色葉字類抄が通常の書物ではなく、辞書であるということからも明らかでしょう。追記するとすれば(写本という観点からはだめな行為なのですが)、写本した時代(同時代)の情報を増補するはずだからです。

 

おしょうぎは、慣れの問題もあって、変だと感じる方がいるかも知れません。しかし、大を「おお」、小を「お」とする例は数多くあります。本稿では、ひとまず、おさか(小坂)とおおさか(大坂)を挙げておきます。大阪の語源は「おさか」から来ているとする説です。

 

本稿このあたりで。小将碁馬名リストの12世紀存在を将棋史だけからダイレクトに説明したいですが、まだ言い切れません。あとしばらくお待ち下さい。大将基馬名リストの方の存在は、摩訶大将棋の復刻本で十分説明できているように思います。なお、投稿265)も関連の投稿ですので参照のほど。

 

1 コメント

2019年

4月

05日

267)摩訶大将棋の復刻本2

前稿にてブログにはなく新刊本にはある項目を書きました。その逆の、ブログに少し書いているのに、本には書かなかった項目についてもお知らせしておかないといけません。将棋と呪術に関連する2つの話しがそれです。次の本には是非入れたく思ってます。以下、第4章から3つの引用です。

 

p63「第4章 起源の将棋」の書き出し:

チェスや将棋のルーツは、一般的には、インドのチャトランガ、ペルシアのシャトランジであると考えられている。西に伝搬してチェスになり、東に伝搬して将棋になったというのが、現状での定説である。ただ、本書で導かれた結果からは、将棋とチェスのルーツは全く別である可能性が高い。チェスは、定説どおり、縦横8マスの盤、16個の立体駒を使うシャトランジから派生したものと思われるが、将棋がシャトランジからの派生であるとは言えないのではないだろうか。摩訶大将棋も大大将棋にも、陰陽五行に基づく六十干支が組み込まれていることを考えると、この2つの将棋は、進化の結果として小さな将棋から大型化したのではなく、大型将棋としていきなり作られたと考える方が妥当であろう。

 

「4-2節 大型将棋の成立順」から

・・・本書の考え方によれば、図56に示されるとおり、摩訶大将棋→大将棋→平安大将棋の過程で、駒は31枚ずつ取り除かれていく。つまり、自陣の駒数96枚の摩訶大将棋から31枚を取り除き、駒数65枚の大将棋が作られた。次いで、その大将棋から31枚を取り除き、駒数34枚の平安大将棋が作られたというわけである。

 実は、この31枚という数は、偶然ではない。同じ駒数96枚を持つ摩訶大将棋と大大将棋の間でも、駒の追加と取り除きがあるが、摩訶大将棋→大大将棋の過程でも、摩訶大将棋の駒が31枚だけ取り除かれていることがわかる。この場合、摩訶大将棋にはない駒が新しく31枚追加されており、摩訶大将棋と大大将棋で駒数は変わらない。

 このように、随所に31枚の駒の取り除きが見られること自体、仕組まれた何らかがあることを連想させるのである。つまり、将棋が変わっていくのは、純粋に遊戯の改良という観点で行われたわけではなかった。面白くするということが目的であれば、31枚に拘る必要はないのである。なお、取り除かれた31枚の駒の解釈は興味深いが、本書では取り扱わなかった。

 

p66 3)金将・銀将の駒が財宝や仏教由来でないことについて:

 先に成立していた大型将棋に、土将、木将、石将といった財宝や仏教由来を想起しにくい駒名があるため、従来の説明は却下されることになる。この点、あらためて玉金銀銅鉄石土と並ぶ将の駒名の意味を問わねばならない。この説明は、2−4節で見たとおり象戯圖の序文に地理の駒として最下段に並ぶことの説明はあるが、この地理の駒が何を意味するのかは本書では取り扱わなかった。将棋が陰陽五行に基づく以上、何らかの呪術的な要素を持つことは確かである。また、大型将棋が天皇周辺の国家中枢だけで行われたことを考えれば、プライベートな呪術のツールというよりは、国家鎮護のための呪術であった可能性も大きいのである。

 

 

0 コメント

2019年

4月

03日

266)摩訶大将棋の復刻(新刊のお知らせ)

成果の一部をまとめましたので、お知らせします。

是非ご笑覧いただければと思っています。

 

学会の予稿集的な本です。書店やamazonでの販売はなく、大阪商業大学アミューズメント産業研究所だけからの購入となります。

 

読みにくいですので、本ブログにて、注釈を随時つけていこうと思っています。時間がなくうまく書けていない部分も多いですし、書き忘れている部分もあります。というわけで、注釈を書かないといけません。発行後、ブログで注釈するというのは、ソフトウェアのアップデートと同じような感じでしょうか。ご質問ありましたらメールか電話でもお答えいたします。

 

目次は次のようになってます。

本ブログに書いていない内容は、2-5節、6-5節、6-6節、6-7節です。

 

2-5節は、大大将棋の駒の動きを復刻する試みです。

古文書の記載にはあまり信頼性がないということを4つの古文書を並べて議論しています。きれいな初期配置として復刻できていますので、たぶん、提示した仮説は正しいのだろうと思っています。

 

6-5節と6-6節は諸象戯圖式の解読です。象戯圖にはない内容です。たぶん、象戯圖とは別系列の古文書が江戸時代までは伝えられていたのだろうと思います。6-7節は、陰陽師と将棋の話です。本ブログには多少書いていたかも知れません。

 

本書の件また近日中に投稿します。

 

第1章 はじめに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1

 1−1 古代日本の大型将棋

 1−2 問題提起

  1−2−1 将棋の起源

  1−2−2 大型将棋の将棋盤

  1−2−3 現代将棋の駒の動き

  1−2−4 踊り駒

  1−2−5 成りとは何か

 

第2章 摩訶大将棋の陰陽五行 ・・・・・・・・・・・・・ 13

 2−1 陰陽五行説

 2−2 摩訶大将棋の駒

 2−3 駒の分類と陰陽五行

 2−4 象戯圖の序文

 2−5 大大将棋の陰陽五行

 

第3章 遊戯としての摩訶大将棋 ・・・・・・・・・・・・ 47

 3−1 歩き駒

 3−2 走り駒

 3−3 踊り駒

 3−4 成り駒

 3−5 無明と法性、提婆と教王

 3−6 仲人

 3−7 麒麟と鳳凰

 3−8 師子と狛犬

 3−9 成りのルール

 3−10 勝敗のルール

 3−11 象戯圖の記述

 

第4章 将棋の起源・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 63

 4−1 大型将棋の駒の包含関係

 4−2 大型将棋の成立順

 4−3 大将棋の復刻

 4−4 大型将棋の出土駒

 4−5 平安大将棋に関する考察

 4−6 大大将棋の復刻

 

第5章 摩訶大将棋の将棋盤 ・・・・・・・・・・・・・・ 77

 5−1 中国象棋と長安城

 5−2 将棋盤と平安京

 5−3 拡張された平安京/交点置きからマス置きへ

 5−4 縮小する平安京/縮小する将棋盤

 

第6章 古文書の解釈 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 89

 6−1 玄怪録「岑順」

 6−2 新猿楽記

 6−3 明月記

 6−4 二中歴

 6−5 諸象戯圖式/狛犬について・成りのルール

 6−6 諸象戯圖式/大大将棋が交点置きであること

 6−7 象棋百番奇巧図式

 

第7章 まとめ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 105

 

 

2019年

4月

02日

265)二巻本色葉字類抄は将棋史解明に重要(その2)

昨日の投稿264)の続きです。現存する二巻本写本の中将棋に関する記述がどの時代になされたのかを考えてみましょう。現存の写本は、次のように連なる写本の結果ということが奥書からわかっています。

 1)二巻本原本:12世紀中頃に成立

 2三巻本原本:1177〜81年に成立

 3三巻本写本(現存):13世紀はじめ

 4二巻本写本1:1315年

 5二巻本写本2:1423年

 6二巻本写本3(現存):1565年

 

まず、二巻本と三巻本の比較を2点だけ。定説は、二巻本-->三巻本の順で成立しています。これは、将棋の駒の観点から見ても正しそうです。

ト)銅将:

二巻本には、雑物の項に、銅将(裏横行)と記載。

三巻本には記載なし。

その代わりとして、畳字の項に、銅山、銅馬、銅烏という「銅」の熟語として記載あり。

 

キ)玉将、金将、銀将:(※は推定)

二巻本には、雑物の項に、玉将、金将、銀将(※裏金または裏竪行)と記載。

三巻本には記載なし。

その代わりとして、畳字の項に、玉兎、金兎、銀漠、銀丸として記載あり。

 

二巻本では採用されていた駒名が、三巻本では削除されて、同じ漢字を含む別の熟語で補われたという形になります(このあたり、他のいろいろな例をあたるべきでしょうが、もっと時間が必要です)。

 

上記の説明を全部認めるとすれば、中将棋は12世紀半ばで成立しています。この結果は、摩訶大将棋を原初の将棋とする限り、特に問題はありません。ただ、二巻本の銅将(裏横行)という記載が、写本1〜写本3の段階で、勝手に追加されたという意見にどう答えるかという点でしょう(校正を経た写本である限り、写本=原本であるはずですが、そうでない写本も多数あります)。以下に説明します。

 

右:二巻本の記載、  左:本来あるべき記載
右:二巻本の記載、  左:本来あるべき記載

右図は、二巻本色葉字類抄の、金将と銀将の箇所のスケッチとして見て下さい(皆さんへ:二巻本色葉字類抄の画像の掲載はかなり高価ですので注意を)。図の右の列が、実際の二巻本、左の列が本来書かれるべき記載です。

 

現存する写本では、間違って写本されているようです。注釈として小さく書かれるべき飛車、竪行が、単語として捉えられた結果、ヒの飛車、シの竪行がキの箇所に入っているわけです。

 

このことから、金将、銀将の記載は、写本3(1565年)で追加されたのではないことがわかります。新しく単語を追加した人物が、中将棋を知らないはずがありません。とすると、次の3つのケースが考えられます。

 

A)写本ミスが、写本1の段階で起こった場合:

 金将、銀将の記載は、原本(12世紀半ば)にある。

 写本2では、写本1を正しく写した。

 

B)写本ミスが、写本2の段階で起こった場合:

 金将、銀将の記載は、写本1(1315年)で追加された。

 写本3では、写本2を正しく写した。

 

C)写本ミスが、写本3の段階で起こった場合:

 金将、銀将の記載は、写本2(1423年)で追加された。

 

ここで、銅将(右下に小さな字で裏横行)の記載が、本来あるべき形で、写本3には残されていることが重要な点となります。しかし、金将、銀将は間違って写本されたというわけです。今日はこのあたりで置きます。

 

私の個人的見解はA)です。中将棋は二巻本原本の成立時にはすでに存在した将棋でしょう。二巻本で考察の中心となるのは、小将棋の駒リストが原本からあったものか、それとも途中で追加されたものかという点です。中将棋以前に存在した大将棋の駒リストは、二巻本に中将棋の記載がある以上、原本からの記載と見て間違いないのですが、この結論は次の学会発表まで引きずることにします。

 

2019年

4月

01日

264)二巻本色葉字類抄は将棋史解明に重要

学会発表はこれからですし、まだ本ブログにも書いていなかったのですが、長谷川さんが公表してしまって困ったものです。のんびりと考えたかったのですが。。。二巻本ということを伝えなければよかったのでしょうか。しばらくは書く予定もなかったのですが、以下いちおうメモ書きしておきます。

 

二巻本色葉字類抄(12世紀中頃)には、中将棋の駒の名前が記載されています。大将棋と小将棋の駒は巻末にまとめて記載されているのですが、中将棋の駒は、本文中に組み込まれています。たとえば、銅将(成りが横行であることを明示)、仲人、銀将(成りが竪行であることを明示)、金将(成りが飛車であることを明示)、香車(成りが白駒であることを明示)、飛車等です。これが三巻本(13世紀はじめ)では、仲人と飛車以外は削除されています(成りの明示がなかったので残された可能性も)。

 

二中歴(13世紀はじめ)に将棋の駒名が記載されており、これが駒名の最初の古文書とされてきたわけですが、駒名の記載は、二中歴よりも二巻本色葉字類抄の方が早かった可能性もあります。二巻本のあとに三巻本が出るのですが、このとき、語句が整理されて削除や追加があります。問題は、二巻本の成立は三巻本よりも早いのですが、現代に残る写本は、三巻本の方がずっと古いという点です。それで、たとえば、将棋の駒名が後で追加されたのか、当初からあって三巻本で削除されたのかの判別が、文献学上では判断がつきません。そこで、将棋の歴史がその検証材料となってきます。これは、9世紀になされた平安京の拡張の問題とよく似たケースです(他分野の歴史の謎と将棋史の謎が、相補的に解決されていくという点です)。

 

色葉字類抄は、摩訶大将棋起源説を裏付ける文献のひとつです。色葉字類抄自体の謎がいろいろと残されており、それが象戯圖と同じで非常に面白い古文書になっています。日本最古の国語辞典というべきものですが、辞典というよりは読み物でしょう。広い範囲に想像を膨らますことができます。当然のことなんでしょうが、日本語は、すでに平安時代にしてとても緻密で豊かな言葉になっていたようです。

 

大将棋の駒リストでは(14世紀はじめでの挿入の可能性もあるわけですが)、酔象の象の字が書かれていません。象という漢字は、たぶん、当時はあまり知られていない漢字だったのでしょう。他の箇所でもよく間違っているのをみかけます。

 

まだ長くなりますし、このあたりで。

詳しくは学会発表の予稿でご覧下さい。

 

2019年

3月

19日

263)原初の将棋が交点置きだった可能性(研究会発表のお知らせ)

追記:2019/3/21 13:30 東京駅にて

非会員の参加問題ありません。メールでのご連絡、おひとりの方からいただき返信させていただきました。他の方も飛び込みでご参加下さいませ。参加者は少ないと思います。

将棋の発表は15:05〜15:30です。とり急ぎご連絡のみにて。

------ここまで追記

 

ゲーム学会の東京での研究会で今週発表します。

-------

ゲーム学会「ゲームと数理」研究部会 第3回研究会

日時:2019年3月22日(金) 15:00〜17:00

場所:株式会社アーヴァイン・システムズ 会議室

〒141-0022 東京都品川区東五反田1-10-10 オフィスT&U B1F

プログラムは今日の時点では未公開です。発表時間は1人20〜30分あたりだと思います。

-------

本稿のタイトル=私の発表タイトルです。お近くの方で、時間の問題なければ、ご参加いかがでしょうか。非会員も参加OKだと思います。無料です。ざっくばらんな研究会です。

が、念のため、takami@maka-dai-shogi.jpまでご連絡下さい。確認の上返信いたします。

 

たぶん、面白い発表になるだろうと思ってます。この話題での発表は今回が初めてです。

摩訶大将棋-->大大将棋までは、将棋は交点置きでしょう。古文書にきちんと書かれていますので、まずその話題から入ります。興味ある方は是非。

 

発表とは無関係ですが、大将棋の成り駒が書かれている古文書、飛車角行入り小将棋の古文書も持っていきます。もちろん、曼殊院の象戯圖原本よりはずっと古いです。たぶん、かなり古いはずですが、調べ切れていません。

 

2019年

2月

01日

262)摩訶大将棋展2019 winterの対局マニュアル

摩訶大将棋展2019 winterの対局マニュアルも仕上がってきました。以下に置きます。摩訶大将棋のルール復刻であることにご注意下さい。こういうルールでやりましょう、ルールをこういうふうにしてみました、ということではありません。なぜこのようなルールであるべきかの説明はお気軽に会場スタッフまで。

 

摩訶大将棋展2019 winterのマニュアル
摩訶大将棋展2019 winterのマニュアル

2019年

2月

01日

261)摩訶大将棋展2019 winterのポスター

摩訶大将棋展2019 winterのポスター
摩訶大将棋展2019 winterのポスター

受付横のポスターが

仕上がってきました。私は、初日の午後前半の担当です。

 

左のポスターの下の方の画像は、現在申請中でWebにはまだアップロードできません。展示パネルの分は申請済みです。

2019年

1月

20日

260)古代日本の将棋の盤について

左)平安将棋、右)平安大将棋
左)平安将棋、右)平安大将棋

 

左が平安将棋(横9マス・縦10マス)、右が平安大将棋(横13マス・縦10マス)です。敵味方の歩兵の間隔が4マスというルールです。このルールは、チェス、シャトランジもそうですが、その他、大型将棋で言えば、ペルシアのTamerlane Chess(横11マス・縦10マス)や、ドイツのCourier Chess(横12マス・縦8マス)、スペインのGrant Acedrex(横12マス・縦12マス)は、どれも、歩兵相当の駒が、敵味方間でちょうど4マスの間隔です。これを、将棋盤の標準ルールだとする仮説もあり得るでしょう。

 

摩訶大将棋の場合、このルールに従えば、横19マス・縦16マスですが、陰陽道に起因する別の説明も可能です。この件は、すでに、以前の投稿243)投稿245)投稿247)にて議論しています。

 

ところで、本稿、上に挙げた2つの図が焦点です。特に、右の平安大将棋は、すべての論文と一般書で、縦横13マスの図しかありません。将棋の盤は縦横が同じ数であるべしという思い込みからでしょう。いろいろ論文を探してみましたが、根拠なしのようです。だとすれば、多少とも根拠のある横13マス・縦10マスの方が無難ではと思う次第です。遊戯としても、縦10マスの盤を使う方が現実的であることは明らかですし。

 

平安将棋の方は、伝来の話とも関連しますので、もっと重要です。9マス9マス、8マス9マス、8マス8マスといろいろありますが、やはり根拠は希薄です。横9マス10マスだとすれば、実は、中国の象棋と同じです。象棋も、当初は、兵卒が4目の間隔だったのではないでしょうか。後になって、1目ずつ前に動かされたのでは。同じように、将棋も縦1マス分短くなったみたいな軽い感じの考え方でよさそうに思います。平安将棋から現代将棋へは、勝敗のルールの変更、飛車と角行の追加、桂馬と銀将の動き変更、と他にも変更点が多いですから。

 

また、平安大将棋から平安将棋ができたとしたとき、この2つの将棋の縦方向のマスの数が同じとするのは、いちおうの理もありそうです。

 

2019年

1月

07日

259)将棋の陰陽五行:検証の方法(2)

明日、と言いつつ5日空いてしまいました。短いですが、とり急ぎ、大大将棋の初期配置を下に置きました。大大将棋は子孫のない将棋ですので、摩訶大将棋よりは古文書の記載が不正確、要注意です。

 

下図の初期配置と駒の動きですが、4件の古文書に加え、陰陽五行のルールを合わせて導いています。矛盾点も出ていませんし、信頼度は高いと思います。将棋の陰陽五行のルールで重要な点は、全部の駒が陰陽のペアを形成しているという点です。一部でなくて、全部の駒がペアを作ります。

 

摩訶大将棋の陰陽五行の検証のひとつになるのは、大大将棋の陰陽五行の存在です。後日詳しく書きますが(駒の動きを客観的に復刻するところが、長い説明になります)、古文書の大大将棋の記載には多くの点で間違いが見つかります。が、面白いのは、その間違いを客観的な方法で、間違いだと断言できるという点です。陰陽五行のルールがそれを可能にします。概論だけですいません。ひとまず、このあたりで。

 

成り元の駒(12種)、成り先の駒(12種)のそれぞれが、五行の1要素となっています。下から2段目の駒は、すぐ下の最下段の駒になるというルールですが、これが、古代ペルシアのルールなのか、古代日本のルールなのかという点、ずっと考え中です。上に飛び出た仲人の存在もそうです。王子の駒の存在もそうです。

 

大大将棋の初期配置と駒の動き。
大大将棋の初期配置と駒の動き。

 

六十干支の表を作る際には、若干の融通性がありますが、ひとまず、嗔猪、悪狼、盲熊、猛豹の4駒を除きました。五行は、将の駒(人)、踊り駒(獣)、成り駒、走り駒、**(名称未決定)です。名称未決定の駒12種は、北狄、南蛮、西戎。東夷、青龍、白虎、香象、白象、師子、狛犬、前旗、盲虎となっています。

 

2019年

1月

07日

258)摩訶大将棋展2019 winter:2019年2月2日(土)〜3日(日)(JR大阪駅前:グランフロント大阪にて開催)

イベントの詳細情報を、この投稿に順次追加していきます。

いろいろ変更があるかも知れませんので、直前に再度ご確認下さいませ。

 

摩訶大将棋展2019 winter

日時:2019年2月2日(土)〜3日(日) 11:00〜17:00

場所:グランフロント大阪 ナレッジキャピタル(JR大阪駅前すぐ)

主催:VisLabOSAKA/大阪電気通信大学

 

対局受付は 16:30 で終了させていただきます。対局が続いている場合は、

18:00ぐらいまではやっていただいて大丈夫です。

持ち時間10分(秒読み30秒3回)ですので、たいていの対局は1時間以内で

終わると思います。2日間のスケジュールは、だいたい次のように考えています。

 

2月2日(土)

 11:00 - 12:30 対局

 13:00 - 14:30 プレゼンテーション & パネル説明

   (13:00 - 14:30 の間、対局は中止となります。ご注意のほど

 14:30 - 17:00 対局 & パネル展示

 

2月3日(日)

 11:00 - 17:00 対局 & パネル展示

 

プレゼンテーションは、次のテーマを予定しています。

 

1)将棋の陰陽五行

2)平安京と摩訶大将棋/平安京と大大将棋

3)大大将棋が交点置きだったことの解説(諸象戯圖式)

4)駒が成るとは何を意味するか/摩訶大将棋の成りのルール(象戯圖の序文)

5)不成とは何を意味するか

6)大型将棋の勝敗のルール

7)大将棋の飛車が金成りだったこと(色葉字類抄)

8)将棋の起源についての考察/大型将棋の成立順

9)玄怪録「岑順」の解読

10)銀将の動きは、昔は違っていた件

11)将棋と陰陽師の関係(かなり密接です)

 

12)古代日本の将棋の盤について

 摩訶大将棋:19×16マス、平安大将棋:13×10マス、等の説明です。将棋盤のマスが縦横同数だとする根拠は、実は、古文書の1行にすぎません(そもそも、将棋の古文書には誤りが非常に多い)。

 

対局:

コンピュータ摩訶大将棋 4セット

摩訶大将棋の駒と将棋盤 2セット

 

古文書・その他文献:

・象棊纂図部類抄(1592年)

諸象戯図式(1696年)

天童の将棋駒と全国遺跡出土駒

 

対局ですが、はじめての人は、コンピュータ版でお願いします。玉将を取れば勝ちというルールも残してますが、去年秋からの試行中のルールでやる予定です。ただ、まだバグが取れていません。その場合は、中途半端なルールになりますが、ご了承を。

 

本稿、順次追加していきます。随時書き直しもあります。ご了解のほど。

 

2019年

1月

02日

257)将棋の陰陽五行:検証の方法

摩訶大将棋の陰陽五行は、将棋の原則とでもいうべきものです。物理学で言えば法則のようなものですが、学会発表したとき、文献の裏付けがはっきりしていないし・・・云々の

意見をいう方がおられました。文献にそのとおり書かれていたら、誰にでもわかる話じゃないでしょうか(とは、もちろん言いませんでした)。文献だけではわからないから面白いのでは。

 

とは言え、大将棋の29種類の駒名とその成り駒がきちんと書かれた古文書を見たときはうれしかったです。この文献には、小将棋(40枚)のことはあるのですが、中将棋は書かれていません。まだ中将棋がなかった頃の話です。これまでは(と言っても、この古文書はずっと前から図書館にあるものです)、普通唱導集(1300年ごろ)には小将棋大将棋があり、古往来(14世紀半ば)には小将棋中将棋大将棋がありますので、中将棋の上限は14世紀前半あたりということになります。したがって、この古文書は一番遅くても14世紀前半の成立でしょう。

 

とすると、小将棋の記述が結構興味深いですね。この古文書が小将棋(40枚)の上限を決めることになります。露伴が、二中歴の将棋には飛車と角が抜けていると言った話、もしかして・・・ということにも。なお、これまでは曼殊院の写本(1443年)が、小将棋の上限でした。庭訓往来にもっと具体的に書かれていたら1300年代になったわけですが。

 

だいぶ前の投稿になりますが、源平盛衰記(1250年ごろ)に龍馬や酔象の言葉がある、

だから、当時すでにその駒があったのだろうと書いたことがありました。

投稿80)摩訶大将棋の駒の出現回数:源平盛衰記

本稿で話題にしている古文書は一番新しくても、13世紀半ばぐらいでしょうか。5年前の投稿と比べると、摩訶大将棋の解明もだいぶ進んだなと思います。

 

本稿のタイトルの件、明日、書きます。全然話がずれてしまいました。

検証可能です。

 

2019年

1月

01日

256)瑠璃石の摩訶大将棋(17路盤)

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 

瑠璃石の摩訶大将棋を下に置きました。17路盤です。駒は48種類(12×4:横飛と瓦将が除かれています)。将の駒(人の駒)、歩き駒(獣の駒)、踊り駒、走り駒、成り駒で、将棋の五行を構成しています。

 

南面 瑠璃石 白碁子 17路盤 原摩訶大将棋
南面 瑠璃石 白碁子 17路盤 原摩訶大将棋

2018年

12月

31日

255)敵陣から引いたときに成る:摩訶大将棋の走り駒・踊り駒の成りのルール

投稿253)でも書きましたが、将棋とチェスは、当初は、別系統の遊戯だったと思われます。それは成りのルールにもよく現れています。たとえば、チェスその他類似の将棋類では、歩兵相当の駒(pawn)だけが成ります。一番奥まで進んだとき、成って別の動きにしないと、歩兵は行き場がありません。つまり、成りは遊戯的な事情から来ています。

 

一方、摩訶大将棋では、たいていの駒が成ります。チェスでは、成りのことをpromotionと言い、強い駒に変わります。ところが、摩訶大将棋の場合、走り駒と踊り駒の成りは金将で、成れば弱くなるのです。この奇妙な成り方は、これまでは,単に将棋のルールがそうなっているだけと考えられており、成りとは何かというような原理的な問題にはなりませんでした。つまり、ボードゲームクリエイターがそのようにゲームを作ったものだと考えられていました。

 

本稿のタイトルの件ですが、

この成りのルールは、思想的な理由によります。将棋が陰陽五行に基づいて設計されたのは、易経や道教の呪術的部分によりますが、成りの考えは、易経や道教の思想的部分から来ているようです。易経や道教の・・、と言っていいのかどうか、私にはまだ勉強不足で、よくわかりませんが(儒教からの影響もあるのかもです)。修正あればまた投稿します。以下、多少の補足です。興味ある方は是非ご一読のほど。

 

成りの理由は、象戯圖の序文に書かれています。実は、この序文は、全部、摩訶大将棋のことを書いていると思っていいでしょう。序文の前半に、将棋が陰陽五行で作られていることが書かれ、序文中盤に、将棋に組み込まれた思想的部分があります。

 

漢文の解釈は省略し、以下、要点のみです。ざっくばらんには、次のようなことが書かれています。前に進むことは善である、それに報いますよ、退くことは悪である、罰を受けなさい。

 

ともあれ、摩訶大将棋の成りのルールは、次のようになります。象戯圖序文からの導出は

直接にお尋ね下さいませ。文章では長くなりますし、随の文献も参照しています。

1)歩き駒は、敵陣に入ったときに成る(ただし、例外が数件あります)。

2)走り駒と踊り駒は、敵陣に入り、その後、敵陣から出たときに(退いたときに)成る。

 

1)2)のルールとも、現代将棋にまで引き継がれています。特に2)のルール、敵陣から出たときに成るルールが、一部残っているのが興味深いです。

 

走り駒、踊り駒が成れば弱くなる(金将に成る)のは、罰ということです。金将に成るルールは、その後、摩訶大将棋から大将棋に引き継がれています(のはず)。文献上の証拠はありませんでしたが、投稿251)にて投稿のとおりです。

251)大将棋(横15マス)が文献に現れるのはいつか

 

未だこの資料の時期ははっきりしていませんが、大将棋の駒が全部列挙された上で、飛車や猛牛の成りが金将であることが、文献資料として非常に貴重です。

 

なお、不成の意味するところはさらに重大です。この件、引き続き投稿します。

 

2018年

12月

30日

254)銀将は昔と今で動きが違うという説

前稿で、将棋の陰陽五行について書きましたが、その話は本稿と連動します。納得いただくためには、1)摩訶大将棋の陰陽五行を認め、2)二中歴の漢文の読み下しを再検討の上、3)二中歴の記述ミスを仮定する、という3段階を経なければなりません。長くなりますので、本稿では概要のみ書きます。この件、将棋の陰陽五行説の検証では、説明が一番むずかしいところでしょうか。銀将の動きは昔も今も同じだと、皆さん、思っているからです。

 

まず、二中歴から書きます(簡潔に)。有名な次の記述のところです。

金将不行下二目 銀将不行左右下

 

通説では、金将は下の二目に行かず、銀将は左右と下に行かず

という意味に読み、動きはずっと同じだったんだなあ・・と思ってしまうわけです。読む前から動き方の知識があり、それに引きずられます。

 

ところで、この読み方でいいのでしょうか?

金将のところで「下の二目」と読んだのであれば、銀将は「左右の下」と読んでもいいわけです。逆に、銀将のところで「左右と下」と読むなら、金将のところも「下と二目(どこの?)」と読むべきでは。平安時代の日本式漢文ですので、このあたりかなり融通をきかすことができて、それが後世に銀将の動きを誤らせることになったのでしょう。

 

直観的にわかりやすいのは、金鹿、銀鹿の動きを見ていただくことです。金の駒、銀の駒は、陰陽のペアで、動きが上下反転する設計になっています。下の図をご覧下さい。

 

金鹿と銀鹿、金将と銀将は、動きが上下反転するように設計されている。
金鹿と銀鹿、金将と銀将は、動きが上下反転するように設計されている。

金鹿と銀鹿は延年大将棋の駒です。問題の銀将の動きは、上図のとおりで、現代将棋の動きとは違います。陰陽のペアになっている駒は、初期配置で隣接、または、左右対称位置に置かれています。二中歴では「銀将不行左右上」と書かれるはずだったのではないでしょうか。不行左右下では、金将の動きです。金将の動きを2回くり返しています(二中歴は、平安大将棋のところでも、同じことを2回くり返えすミスがあります)。

 

なお、本稿をきちんと説明するためには、陰陽の分類、歩き駒のパターン、臥龍・蟠蛇・淮鶏の動きの検討を絡めた話が全体の半分以上になります。延年大将棋の記載も挙げる必要があります。投稿には長過ぎますので、これについては2月の発表時に。

 

次の投稿が、多少参考になるかも知れません。

投稿232)摩訶大将棋の駒の動き方:2018春版

 

2018年

12月

29日

253)将棋とチェスのルーツは同じでしょうか

ー インドのチャトランガ、ペルシアのシャトランジが西に伝搬してチェスになり、東に伝搬して将棋になった。ー 現状、これはかなり固い定説と言えるでしょう。

 

ただ、本ブログでの考察結果からは、将棋とチェスのルーツは全く別である、という答えが出ています。その後、互いに融合し、共通部分を持つに至ったという言い方が正しそうです。まだ研究途上ですが、チェスのクイーンが奔王に由来するかも知れません。仲人の駒が中世ペルシアにまで伝わっていることを考えれば、検討の余地は大いにあるでしょう。

 

チェスは、定説どおり、縦横8マスの盤、16個の立体駒を使うシャトランジから派生したものですが、将棋がシャトランジからの派生であるとは絶対に言えない理由があります。それは、原初の将棋が、駒数多数の将棋だったからです。

 

この根拠は、文献学や考古学に依るものではありませんので、現代の学会発表や論文には馴染みにくいのですが、将棋が作られたのは古代です。是非古代に戻って考えていただけたらと思います。

 

古代の宇宙は、木、火、土、金、水の五行から作られていました。つまり、陰陽五行説です。原初の将棋は、中国や日本の古典籍から見る限り、この陰陽五行説のもとで設計されたようです。将棋を構成する5つの要素(=五行)は、人の駒(将の駒)、踊り駒、走り駒、獣の駒、成り駒の5種類です。五行のそれぞれは、駒の動き方により、陰陽のペアに分けられますが、これは、木が甲(きのえ)と乙(きのと)に分かれるのと全く同様です。このようにして、十干ができあがります。さらに、将棋で六十干支を作ろうとすると、各五行に12種類の駒が必要ですが、摩訶大将棋には、各五行にちょうど12種類の駒が割り当てられています。詳細は次の投稿を参照下さい(今は、細部については、多少組み替えていますが、本質は同じです)。

投稿234)摩訶大将棋の陰陽五行:駒のグルーピング

 

摩訶大将棋が、別の将棋から、たとえば、もっと小さな将棋からの発展で作られたものと考えるのはむずかしいでしょう。12種類ずつに駒を分類するのはできるでしょうが、それぞれのグループ内で、駒の動きにより陰陽のペアを作るという調整は無理ではないでしょうか。こういう整然さを持つということは、最初に作られた将棋であることの証明でしょう。

 

上記、将棋の陰陽五行説には、かなり多数の傍証を挙げることができます。大大将棋も陰陽五行で構成されることや、五行相生を見ることができる点、陰陽寮や陰陽師が強く関連する点等です。順次投稿していきます。

 

2018年

12月

28日

252)将棋黎明期に交点置きの将棋はあったでしょうか

― 中国象棋の駒は交点置きで、日本の将棋の駒はマスの中に置く。もし将棋が中国伝来だったとすれば、なぜ将棋は交点置きではないのか。ー という問いかけは、将棋史では定番です。将棋は昔から交点置きではなかったというのが大前提でした。

 

本稿のタイトルの件ですが、

大大将棋(横17路)が交点置きの将棋だったようです。実は、江戸時代の文献の中にその記述が見つかっています(本ブログでは未投稿。3月に学会発表予定です)記述の信頼性が確認できれば、文献学的には、この件確定です。

 

本ブログでも、文献からではありませんが、交点置きの件、

投稿246)大大将棋の将棋盤:平安京の街路を象棋風に使う

投稿249)ある空想2:原初の摩訶大将棋が交点置きだった可能性

で、間接的に導いています。このこともあって、かなり贔屓目に見てしまってるわけですが。。。

 

大大将棋が交点置きだったのですから、それ以前にあった摩訶大将棋は、当然、交点置きだったでしょう(当初は)。本稿の文献は、昨日のとは違って、よく知られた文献です。目につかないところでの記述ですので、皆さん、読まれていないと思います。他の箇所にも、この文献にしかない貴重な記述もあり、信頼性大なのではと。正しい情報源(古文献)が当時まだ残っていたのでしょう。と考えざるを得ません。多少不思議ではあるのですが。江戸時代の文献ですので。

直接お見せします。ご意見下さいませ。

 

2018年

12月

27日

251)大将棋(横15マス)が文献に現れるのはいつか

最近全然投稿できていませんので、短信にてですが、1日1件づつ研究の進展分をお知らせします。いろいろとかなり進んでいます。

 

今年度の学会発表分も含め、2月はじめのイベント会場内でまとめてプレゼンさせていただきます。是非お越し下さいませ。次のイベントです。

 

摩訶大将棋展2019 winter

日時:2019年2月2日(土)〜3日(日)

場所:グランフロント大阪 ナレッジキャピタル(JR大阪駅前すぐ)

主催:VisLab OSAKA/大阪電気通信大学

後援:ゲーム学会(予定)

 

時間はまだ決めていませんが、初日(2月2日)の13:00〜14:30ぐらいを考えています。

この時間、対局会/展示説明は一時中断ということで。イベント詳細は、新年第2週ぐらいにまた投稿します。

 

本稿のタイトルの件ですが、

大将棋(横15マス:象戯圖)が記載された文献の最古は、12世紀半ばです。ですので、頼長の指した将棋は15マスの大将棋が濃厚でしょう。これまでの最古は、象戯圖の原本(1443年)、または、ぼんやりとはしていますが普通唱導集(1300年ごろ)でした。さらに重要な点は、飛車や猛牛等の成りが金という点です。麒麟、鳳凰、酔象の成りは象戯圖どおりですが、象戯圖の記述(成りは3駒だけ)は、やはり写本ミスと見た方がいいでしょう。カラーコピーをプレゼンのときお見せします。この写本の文献学的な信頼性は、私にはわかっていません。調査中です。

 

2018年

10月

20日

250)平安大将棋の駒の動き:二中歴が正確な資料であることの理由

摩訶大将棋と将棋史の解明は、今年も着実に進んでおり、本ブログに書くことは10項目分ぐらいは余裕でたまっています。その都度、メモのように投稿するのがいいのかも知れませんが、その前に、まずは、摩訶大将棋起源説(大型将棋から次第に小さな将棋になっていき、最終的には二中歴の小将棋が成立したという説)があともう少し研究者の皆さんに承認をもらってからと思っている次第です。従来の説(小将棋=平安将棋がはじめに成立しており、次いで平安大将棋ができただろうという説)か、上記の新説(摩訶大将棋起源説)か、どちらかとなったとき、多数決ではそろそろ新説が優勢という感じにはなってきています(贔屓目ですいません)。

 

ところで、もうしばらくしますと、原摩訶大将棋(ひとまず仮称です)のことを発表しますが、これはルールと強く関連する話しですので、発表中にはたぶんわかってもらえません。

遊戯史はルールの情報も歴史解明の大きな鍵になる点が特徴と言えるでしょう。ルールと関連するせいで全くわかってもらえなかった発表の例を、以下、本稿に書いておいて、来月の発表のときに参照していただこうと思います。

 

なお、摩訶大将棋にはあり、原摩訶大将棋にはなかったと思われる駒は、横飛、瓦将、提婆、無明の4駒ですが、この話題は来月の発表後にまわします。以下の話題は、夏前に発表した内容、大将棋(横15マス)から、駒を減らして、平安大将棋(横13マス)になったと結論できる論拠のひとつについてです。この結論を納得してもらうためには、大将棋の駒の動きのルールを全部きちんと知っている必要があります。短い口頭発表の時間では無理で、この話題は、ポスターセッション用、展示イベント用の話題でしょう。

 

さて、大将棋から平安大将棋へと変わったとき、31枚の駒が取り除かれています。なお、摩訶大将棋から大大将棋、摩訶大将棋から大将棋、平安大将棋から平安将棋への各プロセスでも、同じ31枚の駒の取り除きがあります。この共通の31という数だけでも十分な根拠なのですが、説明にはいくつかの分野が関連するため、本ブログだけでなく学会発表もまだ済ませていません。説明のときに拾遺和歌集にあるひとつの和歌が根拠となります。双六盤も根拠となります。31枚の駒は三条天皇(976 -- 1017)に渡された可能性もあるかも知れません。平安京の街路と摩訶大将棋の関係も少し前、本ブログにて多少書きましたが、ともあれ、摩訶大将棋が古い時代の将棋だったということは確かなようです。

 

土曜日の夜で、前置きくどくどと長くなりました。以下、本題です。二中歴に書かれた駒の動きで、盲虎、銅将、鉄将、横行の動きに疑問を持たれている方は、多数おられると思います。私も1年ほど前までは、二中歴の記述は正確ではないと考えていました。ところが、実は、正しかったです。ということの説明です。以下のリンクを是非ご覧下さい。

 

まず、盲虎、銅将、鉄将の3駒からですが、以下の図は、平安大将棋の場合と、大将棋での場合の駒の動きです。かなり大きく違っています。大将棋での動きについてですが、盲虎と銅将については中将棋でもこの動きですので、大将棋でもこの動きで間違いないものと思われます。 

そうすると、二中歴の記述が間違っていたか、駒の動きが変更されたのか、このどちらかになるでしょう。結論は、駒の動きが変更されたというのが答えです。以下で、これの説明となりますが、ともあれ、駒の動きがこのように変更されたということ自体が、大将棋から、駒を取り除いて、平安大将棋が作られたことの証拠となります。もし、平安大将棋から大将棋が作られたとした場合は、このように動きが変更されたことの説明ができません。

 

さて、歩き駒だけについて考えてみましょう。大将棋から平安大将棋が作られたとした場合、取り除かれた歩き駒は、猫叉、嗔猪、悪狼、酔象、猛豹、石将の6枚です。逆に、そのまま平安大将棋にも使われた歩き駒は、今問題としている盲虎、銅将、鉄将の他は、小将棋(平安将棋)にも含まれる玉将、金将、銀将、歩兵、それと、仲人(後で話題にします)です。取り除かれた6枚の駒の動きは、以下のとおりです。

 

ここで、上のふたつの図を見比べてみて下さい。平安大将棋での盲虎、銅将、鉄将の駒の動きは、それぞれ、大将棋での猫叉、嗔猪、悪狼の動きと一致します。これはどういうことか。つまり、猫叉、嗔猪、悪狼は、駒の名称としては取り除かれたのですが、実は、駒の動きの方は、平安大将棋で使われたということです。この3つの駒の動きを残すため、盲虎、銅将、鉄将は、名称は残ったのですが、駒の動きの方が変更されたということになります。いかがでしょう、このシナリオは。

 

そこで、ではなぜこういうことをしたのか。それは、駒の動きは変更しないという規約が、将棋の呪術的な要素や陰陽五行よりも重要でなかったということなのです。時間ですので、この続きは後日にしますが、1年半前の投稿203)も参照下さい(現時点では、投稿203は一部修正すべきですが、本稿には影響しません)。十二支の駒のうち、平安大将棋にまで残った唯一の駒は盲虎、つまり、阿弥陀如来の駒です。ところが、釈迦如来の駒(嗔猪)、大日如来の駒(悪狼)も動きとして残されていたというわけです。もちろん、薬師如来の駒(玉将)も含め、摩訶大将棋から駒が順次取り除かれていく過程で、4つの如来の将棋駒は、最後まで全部残されたということになります。

 

あともう1点、陰陽五行との関係も指摘しておかないといけません。平安大将棋では、酔象の駒(盲虎と陰陽のペアを形成する)が取り除かれたため、盲虎の陰陽ペアがなくなってしまうという事情です。この点の概略は、投稿234)摩訶大将棋の陰陽五行を参照下さい。陰陽五行についても、もう少し詳細が必要ですが、まだ未投稿です。

 

ところで、横行の駒の動きも、大将棋の動きから変更となります(後ろに歩けない)。この変更は、陰陽五行の観点からです。この点、また後日の投稿ということで。ここまで書いてみてわかるのですが、この話題は、口頭発表では、まず納得してもらえないでしょう。テーブルを囲んでの研究会での1テーマです。最初の方で書きました原摩訶大将棋の話しも同じように短時間ではむずかしいだろうと思ってます。

 

 

2018年

8月

25日

249)ある空想2:原初の摩訶大将棋が交点置きだった可能性

中国の象棋が交点置きなのに、平安将棋がそうでない理由(マス目の中に置く理由)については、これまで様々に議論されてきたように思います。しかし、それらは、いったんご破算と考えるべきではないでしょうか。平安将棋が将棋の起源だったと考えるよりも、摩訶大将棋を起源だとする方が、いろいろな点で合理的、納得がいく多くの結果が出ているからです。

 

ところで、実は、摩訶大将棋が交点置きだったという可能性があります。個人的には、残念ながら、という気持ちが強いのですが、仕方ありません。摩訶大将棋は将棋の起源だと思われますが、さらに、大型将棋そのものも、日本が発祥ではなく中国起源だという可能性もあるでしょう。摩訶大将棋が交点置きだったとなれば、その傍証になるかも知れません。もちろん、交点置きだったとしても、大型将棋が日本独自という可能性もありますが、宝応将棋が多数駒を暗示している以上、むずかしいと考えます(宝応将棋の件についても、後日きちんと投稿します)。

 

さて、投稿246)では、大大将棋が交点置きだったという可能性について書きました。では、なぜ大大将棋だけが特殊で、交点置きなのかと思われた方もおられたかと思います。この点については、平安京についてのある学説が正しいとするならば、大大将棋だけでなく、摩訶大将棋も交点置きだったことを導くことができます。

 

平安京は、開設当初は、今伝えられている街路よりも、南北方向にひとつだけ少なかったという説があります。つまり、途中で、ひとつ増やされたというわけです。平安京はどんどんと衰退してその領域が狭まっていったのにもかかわらず、大路が北側にひとつ増やされたらしいのです。この説が関連の学会でどの程度支持を受けているのかは今論文を読みつつ情報収集中です。

 

この説に従えば、9世紀の後半までは、北は土御門大路(これが一条大路に相当)までしかなかったそうです。つまり、大内裏は、道ひとつ分だけ南北方向に短くなっています。そして、この場合、大大将棋の初期配置の理由づけが、投稿246)の図で説明したものよりも、さらに明解になります。ですので、私は、この説は本当なのだろうと思っています。逆に、大大将棋の初期配置が、この説のひとつの傍証にもなりそうです。

 

一番下に、9世紀前半の平安京と大大将棋の初期配置の一部を置きます。大内裏から南の方を見ています。歩兵が大内裏(宮城)の外側に並び、象棋と同じ配置になることを確認下さい(投稿246では、大内裏の端の位置に並んでいます)。また、前旗の駒の位置が、ちょうど朱雀門の位置と一致します。前旗が朱雀門にあるというのは、まさにそのとおりなのではないでしょうか。

 

ところで、この説のとおりだとすれば、南北方向にマス目がひとつ少なくなりますので、投稿245に示されたように、19マスの長さの摩訶大将棋の将棋盤を取ることはできません。しかし、もし、摩訶大将棋が交点置きの将棋だったとすれば、交点はちょうど19、つまり、この場合でも、摩訶大将棋の将棋盤は平安京の中に存在しているのです。そして、平安京の道がひとつ増えたとき、摩訶大将棋は、交点置きからマス目の中に置く将棋となった、そう考えるわけです。この考えによれば、摩訶大将棋は、道が増えた時期には、すでに存在していたと結論できます。「9世紀後半には、摩訶大将棋は存在していた」ということですが、いかがでしょう。ひとまず、「ある空想2」としておきます。

 

大大将棋と9世紀前半の平安京。前旗の駒は朱雀門の位置に置かれている。
大大将棋と9世紀前半の平安京。前旗の駒は朱雀門の位置に置かれている。

2018年

8月

25日

248)ある空想1:近江八幡にある摩訶大将棋の将棋盤

少し前の投稿で、摩訶大将棋の将棋盤は、平安京の碁盤目を模したものだろうという考えを紹介しました(投稿245:将棋盤と平安京を参照下さい)。同じように、長安の碁盤目が象棋の将棋盤を、大大将棋の将棋盤も平安京を模したように見えます。これらは、単なる一致にすぎないと見るかどうか。むしろ、仕組まれたものとする方が自然ではないでしょうか。陰陽道に基づいた平安京と、陰陽道の神事である摩訶大将棋の盤がそっくりだったとしても、それほどおかしくはありません。

 

一方で、摩訶大将棋は、天変地異を鎮める呪術だったわけですが(たとえば、投稿208)大地震と摩訶大将棋投稿237)天変地異と摩訶大将棋)、おそらくは、大地震や洪水を鎮めるための遊戯だったのでしょう。摩訶大将棋の成立の時期、それと、再登場の時期も、大地震の時期と平安京と碁盤目から推定してみようという試みが、本投稿の主旨です。詳しくは、かなり広い分野と関係し長くなりますので、本稿では、まず、近江八幡の碁盤目のことから書いていきます。

 

平安京の碁盤目と一番よく似ている碁盤目の町は、近江八幡です。下の図をご覧下さい。何をもってよく似ているかということですが、それは、摩訶大将棋の将棋盤が浮かび上がっているという点においてです。北方に位置する八幡山城(大内裏に相当)が朱雀大路相当の道を見通しており、南北方向の区画数はちょうど19です。

 

さて、この碁盤目を設計したのは、秀吉か秀次でしょう。1585年11月に八幡山城の建設が始まり、1587年9月に城下町(つまり、碁盤目)が完成したそうです。秀吉は、これ以前にも、長浜の城下町を作っていますが、長浜は、平安京の碁盤目とは全然似ていません。長浜と近江八幡の重要な違いは、近江八幡が天正大地震(1586年1月)の直後に作られた町だということです。近々の投稿でゆっくりと書いていきますが、秀吉が天正大地震の直後から作り始めたものは、この他に、京都の大仏と聚楽第があります。それが、摩訶大将棋とどんな関係があるのかと思われるかも知れませんが、本稿、このあたりで置きます。

 

以下、近江八幡の碁盤目です。ご参考まで。近江八幡の碁盤目、京都の大仏、聚楽第が作られた理由は、通常の学説どおりかも知れませんが、そうではなく、この3つは全部同じ理由で建設が開始されたのかも知れません。つまり、「地震を鎮めるための呪術」です。本稿では、ひとまず、「ある空想1」としておきます。詳細また後日の投稿で続けます。

(西暦が間違っているとのご指摘をいただきました。ありがとうございました! 年の箇所、3箇所を修正しました:2018年8月31日)

 

右の図は、現在の近江八幡の町割りです(google mapから抜き出しました)。近江八幡の古地図は、滋賀報知新聞の『「八幡町絵図」を文化財指定(平成21年3月24日)』のサイトを参照下さい。そこに八幡町絵図(近江八幡市所蔵)が掲載されています。1675年の絵図です。画像への直接リンクはここです

 

下の左図の赤枠が、碁盤目の街路の部分です。縦横比が平安京とほほ同じです。下の右図は、街路に合わせて、摩訶大将棋の将棋盤を組み入れた図です。

2018年

8月

14日

247)大型将棋の歩兵の間隔は4マス

投稿243)と投稿245)で、摩訶大将棋の将棋盤のサイズを横19マス縦16マスと書きましたが、説明の方をまだきちんとしていませんでした。本稿にて書きます。試遊をくり返していますが、19×19より19×16の方がゲームとしてもよさそうです(序盤が短くなりますが、これをどう見るかによります)。摩訶大将棋の以前の将棋盤は3盤作ってもらったのですが、また新しく発注を考えないといけません。

 

ともあれ、象戯圖にはきちんと「縦横各十九目」という文言が記載され、残っているわけですから、縦16マス説については、それなりの明解な根拠が必要となるでしょう。私としては、主観的には、長安から象棋の盤、平安京から摩訶大将棋の盤、大大将棋の盤が作られており、どれも定量的に一致しているということ、しかも、宮城と大内裏の位置と大きさも取り入れられているということ、それだけで十分なのですが、話しをしていて感じる限り、将棋史に無関心な人には十分でなさそうです。大大将棋の特殊性までがわかっていないと、根拠3点でなく、根拠2点だけとなるからです。

 

むしろ、はじめに挙げる理由としては、世界の大型将棋類からの、次の知見を挙げた方がいいのかも知れません。実は、今知られている世界の大型チェス、大型シャトランジのすべては、歩兵タイプの駒は、初期配置で4マスの間隔で並んでいます。図は示しませんが(Web検索にてすぐ確認可能)、次の将棋です。

 ・ドイツのCourier chess(横12マス・縦8マス)

 ・スペインのGrant Acedrex(横12マス・縦12マス)

 ・ペルシアのTamerlane chess(横11マス・縦10マス)

どれも、歩兵タイプの駒は、ちょうど4マスだけ間隔をあけて並んでいます。なお、Tamerlane chessには、仲人タイプの駒を加えたバージョンも存在しますが、この場合も、盤のサイズは変わらず、歩兵タイプは4マス間隔、仲人タイプは2マス間隔です。この間隔を、言わば、将棋類の世界標準と見るのです。なお、大型将棋類ではありませんが、

 ・中国の象棋(横9路・縦10路) ---> 歩兵タイプの間隔:2路

 ・ペルシアのシャトランジ(横8マス・縦8マス) ---> 歩兵タイプの間隔:4マス

であり、状況は変わりません。

 

象戯圖の摩訶大将棋を見れば、歩兵の間隔は7マス。大大将棋と大将棋は5マスで、平安大将棋は、縦横同数のマスだとすれば、7マスとなります。最前列の歩兵の間隔は、非常に重要なゲーム要素ですが、それを、将棋の進展に伴い変化させるのかという点、ご一考下さい。

 

そこで、摩訶大将棋の歩兵の間隔が、世界の大型将棋類と同じで、実は、4マスだったと考えます。すると、盤は縦16マスでなければなりません。摩訶大将棋の横19マス、縦16マスの将棋盤はこうして出来上がるのですが、その将棋盤は、平安京の街路のマス目とぴったり同じだったというわけです。投稿245)の図を参照下さい。

 

摩訶大将棋の将棋盤が、平安京を模したものだと見ると、次の点が、明解となります。

1)摩訶大将棋の成立した時期

2)将棋盤のサイズが順次小さくなっていった理由

これらの点、また別稿として投稿します。

 

ところで、中将棋は、歩兵の間隔は4マスで、かつ、盤は12×12の縦横同数となります。中世後半まで残った、この中将棋の正方形の盤が、他のおぼろげだった大型将棋の盤も正方形だとする間違いを生んだのかも知れません。大型将棋の横のサイズは伝えられた初期配置でわかりますが、盤の縦のサイズは伝えられなかったのでしょう。

 

 

2018年

8月

13日

246)大大将棋の将棋盤:平安京の街路を象棋風に使う

前稿245)将棋盤と平安京の補足です。まず、唐の長安の街路と象棋(シャンチー)のことを書かねばなりません。下の方に、長安の街路と象棋の盤の対応を示しています。いかがでしょう、このきれいな対応。実は、この件、もう4年前(2014年6月)になりますが、

投稿96)長安の都はシャンチーの盤:将棋と陰陽道

にて投稿しています。この頃は考察がまだあまり進んでいなかったようです。

 

同じ頃、平安京の碁盤目状と将棋の対応も考えていました。実際、

ラウンドテーブル「将棋の歴史について考える」

の発表のときに、将棋史関連の皆さんの前で、平安京の図面も見せたのですが、私含めて全員が、前稿245)の考えには行けませんでした。それは、平安京が長方形だからです。将棋盤は正方形という先入観がたぶん強すぎたのでしょう。

 

象棋の場合、街路と盤との対応は、河界で隔てられた部分までです。しかし、横9路と敵陣の縦5路の対応はぴったりです。また、象棋の将と士は、斜線のつけられた上部中央の領域(九宮)から出ることはできませんが、長安の宮城の領域が、ちょうど象棋の九宮に対応していることもわかります。象棋の盤は、全体で横9路、縦10路なのですが、敵陣と自陣、縦5路を、河界を隔ててつなぎ合わせたものになります。

 

さて、大大将棋の将棋盤と平安京の対応を、長安の図の下におきました。摩訶大将棋は、平安京の東西の端を最下段として使いますが、大大将棋では、南北の端を最下段として使っています。そう判断できる理由は、大大将棋の盤が大内裏(天皇、大臣、官僚がいる場所です)の領域を意識して使っているからです。このことは、将の駒の並び方からわかります。なぜ大大将棋だけ、将の駒が最下段にずらりと並ばなかったのか、答えは平安京にあったというわけです。また、駒は横に17枚並びますから、マス目(16マス)に置くのではなく、交点(17路)に置かねばなりません。

 

図では、駒を丸い形にしましたが、単にイメージです(まだ検討が必要)。天子のいる場所(宮城・大内裏)を意識している点では、象棋風と言えるでしょう。大大将棋には、東夷・西戎・南蛮・北狄といった中華思想を表す駒も含まれており、これもまた日本風ではありません。さらには、中国の向こう、ペルシアの将棋との繋がりを一番強く持つのも大大将棋なのです(この点は、また後日に)。では、大大将棋の将棋盤、一番下に置きました。

 

左)唐の長安の街路。赤丸は街路の交点を示す。右)象棋の初期盤面。
左)唐の長安の街路。赤丸は街路の交点を示す。右)象棋の初期盤面。
平安京の街路を格子の線で示した(横17路である)。うす茶色の部分が大内裏である。玉将を中央にして将の駒が連続して並ぶが、鉄将までが大内裏に入っている。七条以北の平安京(縦16路)が大大将棋の盤に対応することになる。
平安京の街路を格子の線で示した(横17路である)。うす茶色の部分が大内裏である。玉将を中央にして将の駒が連続して並ぶが、鉄将までが大内裏に入っている。七条以北の平安京(縦16路)が大大将棋の盤に対応することになる。

2018年

8月

12日

245)将棋盤と平安京:摩訶大将棋起源説の傍証

摩訶大将棋が原初の将棋であることは、本ブログにていろいろな観点から書いてきましたが、今年になってからも、多くの進展がありました。その中でも、将棋盤のサイズの問題は、影響が大きい問題です。最近になって、本稿を強力に支持する材料も揃いましたし、先日の学会にてその件の発表も終わり、いちおうのスクリーニングも済みました(特に問題なしです)。本来は、強力な支持材料の方から投稿すべきですが、ひとつひとつが非常に長い話で、投稿に時間がかかります。それで、まず、投稿243)の将棋盤の件、直接的な根拠を書きます。平安京の町並み自体が摩訶大将棋の将棋盤であったという考え方です。

 

この考え方は、古代の将棋が呪術だったということを前提にしています。ですので、将棋を遊戯の観点から考えておられる方にとっては、すぐ賛同してもらえないかも知れません。これだけだと、偶然だろうと思われるかも知れませんが、実は、中国の将棋(象棋:シャンチー)も、将棋盤のサイズは、長安の都の町並みから来ているのです。どうして、こういう単純なことが今まで無視されてきたのだろうか不思議ですが、それは、文献に引きずられているということなのでしょう。摩訶大将棋は19×19マス、大将棋は15×15マスとはっきり書いてある、だから、それでOKと思っているだけです。しかし、どうも、象戯圖の記述は間違いです(間違いは多々あります。ご注意を)。

 

以下に、平安京の町並みの図を作りました。いかがでしょう。摩訶大将棋の将棋盤そのものと見れるかどうかが第一関門となります。横19マス縦16マスです。歩兵と歩兵の間隔は4マス、仲人と仲人の間隔は2マスで、世界の将棋類に共通です。この説明に加え、長安の都とシャンチーの関係も同じですということを挙げれば十分だと思っていたところ、先日の学会では、大型将棋を全くご存知ない方から、それだけでは無理というコメントをもらいました。ですので、この結論を納得してもらうためには、

1)摩訶大将棋起源説

2)将棋は神事であり呪術であること

の方を先に納得してもらわないといけないのだろうと思います。これまでの発表や論文で十分納得いただけると個人的には思いますが、まだ論文にしていない部分も、今後少しずつ投稿し、強力な援軍にしたく思います。31枚の謎や二中歴の解読は、呪術を説明する上で非常に大きいのですが、先日の発表では、駒の動きをきちんと把握している人でない限り、全くついて来てもらえませんでした。

 

ですので、本稿では、まず、大大将棋の将棋盤の話しから入ることにします。下の図(と長安の図も必要です)を見ていただくとわかるのですが、大大将棋の将の駒が最下段に並ばない理由がはっきりします。それと、大大将棋は、摩訶大将棋はじめその他の大型将棋とは違い、南北に対局者が座ります(摩訶大将棋は東西に座る)。つまり、古代の中国風です。たぶん、大大将棋の駒は交点に置かれているでしょう。一部の駒は一文字だったかも知れません。兵の出土駒などはその可能性があります。

 

本稿については、最終的には、31枚の話、二中歴の話、宝応将棋の話、摩訶大将棋の成りの話やルールの話しを順に聞いていただくことになります。実は、将棋盤が変わったこの機会に他のルールも改変しています。象戯圖の序文は、全然関係のない文章に思えても、実は将棋の駒のことやルールのことが書かれています。なかば暗号のような文章と言えます。

 

長く書くつもりはなかったのですが、長くなりました(説明を全然せずに)。ともあれ、下の図面をどうぞお楽しみ下さい。図は、きちんと設計された、当初の平安京の町並みです。ただ、平安京は、造営されて早々に、右京や下京の方から寂れていきます。平安京を模した将棋盤も、だから、次第に小さくなっていったわけです。説明少なくすいません。この件、また別に投稿します。

 

平安京の町並み
平安京の町並み

2018年

7月

26日

244)大型将棋の縮小化:31枚の意味するもの

日本古代の将棋は、原初の摩訶大将棋から31枚単位で駒が減っていきます。下図に示されるとおりです。したがって、摩訶大将棋よりも小型の将棋では、古文書で伝わった将棋の他には、まだ見ぬ将棋、幻の将棋といったものは存在しないでしょう。では、31枚とは何なのか。これは、将棋の持つ呪術性から説明することができます。

 

なお、大大将棋は摩訶大将棋よりも後で成立しますが、駒の数は同数です。しかし、摩訶大将棋から31枚の駒を取り除き、31枚の新しい駒を追加していることに注意して下さい(猛虎等、同じ発音の駒は同じものとしてカウント)。問題は、最後の段階の平安将棋ですが、やはり、31枚を取り除いたのだろうと思います。つまり、平安将棋の駒数は37枚だった可能性もあるでしょう。その1枚だけあぶれた駒を、盤の上に置いたのかどうかです。その駒は酔象です。

 

以上の件は、もちろん、前稿243)で書きました大型将棋の将棋盤のサイズの問題とも関連しています。ここまできちんとしたシナリオのもとに、将棋が発展していったとは思いもよりませんでした。

 

大型将棋の縮小化:摩訶大将棋から始まり、31枚単位で駒が減っていく。
大型将棋の縮小化:摩訶大将棋から始まり、31枚単位で駒が減っていく。

2018年

7月

24日

243)摩訶大将棋の将棋盤

摩訶大将棋の初期配置(横19マス・縦16マス)
摩訶大将棋の初期配置(横19マス・縦16マス)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

摩訶大将棋の将棋盤のサイズについて、最近、新しい発見がありました。前稿では、19×19ではない可能性ありと書きましたが、可能性というよりはもっと断言していいものと思われます。摩訶大将棋の復刻は、もうこれで終わりこれで終わりと何度も思ってきましたが、また、今回、こういうことが起こりました。将棋盤も作り直さないといけません。コンピュータ摩訶大将棋も修正が必要です。上図はスクリーンショットから作っただけの図ですので、格子模様がずれています。つまり、筋違い角、筋違いマカツになります。これまでの摩訶大将棋の打ち方とは少し違ってきますので、ご注意のほど。

 

いちおう、各大型将棋の将棋盤のサイズは、以下のとおりです(もう、断言でいきます)。

 摩訶大将棋:19マス×16マス

 大将棋  :15マス×14マス

 平安大将棋:13マス×10マス

なお、平安将棋は、 たぶん、9マス× 8マスだろうと考えます。

 

この結論は、将棋の成立順や摩訶大将棋の成立時期とも連動しており、次のようになります。

将棋の成立順: 摩訶大将棋 --> 大将棋 --> 平安大将棋 --> 平安将棋

摩訶大将棋の成立時期:9世紀後半(専門文献をまだきちんと当たっていませんが、10世紀よりも前だと思われます)

 

この件で発端となる論拠は歴史学からの1点のみですが、傍証が複数あり、それぞれが結論を支持していますので、これで間違いないだろうと考えます。そうだとしますと、大型将棋が次第に小さくなっていった理由は、当時の社会情勢が主な原因で、遊戯とは無関係だということになり、個人的にはがっかりしています。一方で、大型将棋のペルシアへの伝来問題、つまり、クイーンの起源の問題にとっては朗報です。

 

なお、象戯圖の摩訶大将棋の項には、縦横各19目と記されていますが、これは間違って伝わったものでしょう。研究当初は、古文書の記述を絶対的と考えていましたが、記述の間違いが多数あることもわかってきました。古文書の少ない遊戯の遊戯史研究では、文献学第一は問題かも知れません。ただ、これとは真逆な例になりますが、二中歴の大将棋の記述は、きちんと正しかったです。盲虎や鉄将や銅将の動きをあのように書いている資料は、さほど重要視しなくてもいいだろうと考えていましたが、全く間違いでした。あの動きで問題ありません。一方如此行方准之の箇所も解読できたかもです。

 

今週末の発表、何か楽しみです。どういう質疑応答になるのでしょう。

 

2018年

7月

21日

242)古代日本の将棋について(ご案内)

久しぶりの投稿となります。いただいていますお問い合わせメールにも未返信のままで申し訳ありません! 明日以降順次返信させていただきます。

 

以下、講演のご案内です。上手なトークになるかどうかわかりませんが、内容は最新の内容です。55分間の短い発表ですし、3000円の参加費もかかりますが、それでも、是非お越し下さいませ! と書かせていただきます。

 

ゲーム学会 第16回合同研究会

平成30年7月28日(土)12:30受付開始

13:00- 研究発表

15:35- 企画講演「古代日本の将棋について:遊戯とは何かを考える」 <--- これです。

場所:大阪電気通信大学 駅前キャンパス 1階 101室

https://www.gameamusementsociety.org/article.php?story=JRC_16

 

内容:次の3点をメインの話題にします。

1) やはり、摩訶大将棋が原初の将棋で、駒が順次落とされて平安将棋ができたようです。これまでにもいくつか根拠を提示してきましたが、これが決定打です。酔象が出土している理由もわかりました。

 

2) 平安将棋ができるひとつ前の段階は、平安大将棋ですが、ここに盲虎がある理由がわかりました。以前一度、二中歴はB級資料かも知れませんと書いたことがありましたが、そうではありませんでした。すごいと思いました。

 

3) 摩訶大将棋の将棋盤は19×19ではなかった可能性があります。

 

今作成中のスライドは、冒頭で、万葉集 --> 王梵志 --> 拾遺和歌集 --> ・・

と続きます。将棋とは関係のない無駄話のように思われるかも知れませんが、今回ここが必須で、拾遺和歌集のその歌がなければ、将棋史の解明は少し遅れたでしょう。なお、本発表は文学の話ではなく(むしろ文学以前というべき)、あくまでも学術的なスタンスです。空想は入っていません。

 

お待ちしております!

 

2018年

3月

31日

241)摩訶大将棋の駒は榧の彫駒

古代の出土駒は、今のところ、書き駒ばかりですが、摩訶大将棋の駒は彫駒だった可能性もあります。それと、駒の樹種は、榧だったのでは。そういう話を書きます。

 

(本稿、また後ほど書きます)

 

2018年

3月

30日

240)ボードゲームとしての Maka Dai Shogi

 

なにはともあれ、ひとまずアップロードしておきます。もちろん、研究室でデザインしたものではありません。ボードゲームクリエイターのNさんの作品です。今日、横浜の税関まで取りに行ってきました。盤、駒ともにアクリル製です。なお、上の写真では、盲虎と猛牛を他の駒で代用しています。摩訶大将棋のボードゲームの部分だけを抽出したものですが、呪術としての摩訶大将棋も十分感じとれるのでは。

 

もう1点、大きい写真も、下に置きます。

 

 
 

2018年

3月

27日

239)桂馬と香車の由来:どう考えればよいか

日本における将棋の起源を平安将棋とみなした場合、いろいろな問題点があぶり出てきます。これについては、以前の投稿にて何回か取り上げてきました。たとえば、次の投稿にあります。217)将棋の起源に関する話題2017年12月1日

 

平安将棋に関する疑問点のひとつに、桂馬と香車の由来に関する問題があります。これらの駒に見られる、前後非対称な動き、弱い動きは、世界の将棋類から見ればかなり奇妙な動きなのです。他の将棋類には見当たりません。とは言え、日本で創生された独自の動きとも言い難いでしょう。

 

研究者諸氏は、この問題をどのように納得しているのかと言うと、よく知られている考え方は、「弱い駒」が伝来してきたのだろうという考え方です。たとえば、シャトランジ(古代ペルシャの将棋)には、八方桂に相当する駒、飛車に相当する駒があるのですが、もっと以前の時代には、そのような強い駒はなく、弱い駒が存在していたとするのです。その弱い駒が日本に伝来してきたのだろう、その弱い駒が桂馬(前にしか行けない八方桂)であり、香車(前にしか行けない飛車)だとするわけです。

 

そういう駒が伝来してきたのだから、桂馬や香車があっても疑問ではないとするですが、この考え方は疑問が生じる場所を日本から別の場所に移しているだけです。桂馬や香車と同じ動きをする駒が、古代世界のどこかにあったとする古文書はないからです(と言うのも、このような主張をする論文には、弱い駒が存在したという文献の引用がありません)。もともと桂馬や香車の動きをする駒があった、そう考えることにしましょう、だから、平安将棋に桂馬や香車の動きがあっても問題ない、こういう論理です。

 

上の論理がひとつの説だとすれば、以下の説は、もっと有力な説と言えるでしょう。平安将棋ができる以前に摩訶大将棋があった(摩訶大将棋起源説)ことを前提に考えれば、問題はなくなります。

 

摩訶大将棋が始めにあったとすれば、桂馬や香車のような弱い動きの駒は、必ず存在します。多数の駒の動きを作らないといけませんから(駒の数だけ、駒の動きが必要)、どうしても、弱い動きの駒ができてしまうことになるわけです。

 

(次の投稿で続けます) 

 

2018年

3月

25日

238)研究発表(呪術としての摩訶大将棋:陰陽五行との関連)

直前にアナウンスしてもとは思いますが、

ゲーム学会「ゲームと数理」研究部会 第2回研究会が

今日・日曜日、東京、五反田駅近くで開催されます。

www.gameamusementsociety.org/article.php?story=GameMath_2

 

ゲーム学会「ゲームと数理」研究部会 第2回研究会

日時:2018年3月25日(日)13:00〜15:00

会場:株式会社アーヴァイン・システムズ

 

数理というジャンルではありませんが、将棋史の発表もプログラムに入れてもらいました。

タイトルは、

呪術としての摩訶大将棋:陰陽五行との関連

私の発表時間は、13:30からの30分です。

研究会は2時間で、発表は4件あります。

 

聴講は自由です。会費も不要です。

以下に、発表概要の部分のスライドを置きます。

 

2018年

3月

14日

237)天変地異と摩訶大将棋:隕石と玉と将棋と薬師如来

今年の1月、呪術としての摩訶大将棋のことを学会発表しています。そのとき、たいへん貴重な情報を教えてもらいました。このことは是非書いておかねばです。

 

古典籍文理融合シンポジウム

日時:2018年1月30日(火)~1月31日(水)

場所:国立極地研究所・国文学研究資料館 2階大会議室

主催:「天変地異と人間社会の変遷:言葉の在り方と世界の在り方」(2017年度 総研大 学融合推進センター センター長裁量支援研究)

https://aurora4d.jp/workshop/614/

 

「天変地異と摩訶大将棋 ―明月記と象戯圖の解読から―」

というタイトルで発表しましたが、発表のppt画面は、後日公開されることになっています。ただ、古文書の画像が多数含まれるため、まだ手続きがとれておらず、アップロードできていません。

 

発表は、時間も短かったですので、摩訶大将棋の復刻や大型将棋の成立順をほぼ省略し、摩訶大将棋に現れる呪術の部分、つまり、玉将=薬師如来説からはじめ、そこから、天皇の薬師悔過、天変地異を鎮める薬師如来のことを発表しました。類似の内容は、本ブログでも、断片的に投稿しています。たとえば、

214)洪水の発生と古代の将棋(2017年4月20日)、

210)薬師如来の呪力の一例:洪水を封じる(2017年3月18日)

208)大地震と摩訶大将棋:金銀銅鉄石土の駒ができた理由(2017年3月15日)

220)摩訶大将棋の地理の駒(2017年12月4日)、

204)将棋の桂馬と香車:薬師如来への供養(2017年2月7日)、

などを参照下さい。

 

さて、本題ですが、教えてもらった貴重な情報は、隕石落下に関する江戸時代の古文書に書かれた次の記述です。

 

薬師如来が玉になって落ちてきた

と書かれているそうです。本稿では、この記述があることのみ、書き置きます(詳細は、古文書の原本を調べた後、後日の投稿ということで)。「科博の八王子隕石小片について」の発表のとき、発表された情報です。隕石の研究者には周知の事実なのかもですが、私は知りませんでした。

 

隕石=玉と考えることについては、そのとおりの普通の記述だと言えますが、では、なぜ、それが薬師如来なのかという点が注目されるべきでしょう。阿弥陀如来でも、釈迦如来でもなく、薬師如来だというのです。

 

これは、将棋の玉将が薬師如来であることと同じ理由なのではないでしょうか。玉が薬師如来であることは、玉=天皇=薬師如来ということと、薬師如来(=薬師瑠璃光如来)の瑠璃という語句からも来ているものだと思われます。隕石が瑠璃色の光を発して飛んできたということもあるかも知れません。この場合、瑠璃+光ですから、もっと、薬師瑠璃光如来に近づくでしょう。

 

ともあれ、玉が薬師如来と結びついているのは、江戸時代の古文書の記録者が、そのとき思いついた話ではなく、もっと普遍的にあった認識ではないのかと考えます。

 

2018年

3月

13日

236)駒名が二文字である理由:陰陽五行(干支)からの帰結

前稿235)からの続きとなります。前稿では、宝応将棋が存在した可能性について書きました。自説ですから、どうしてもひいき目になりますが、次の仮説も正しいだろうと思っている次第です。将来何らかの文献学的または考古学的証拠が出てくるのかどうか。楽しみにして待ちます。

 

1)将棋の二文字の駒名は、陰陽五行の干支に由来する。

2)二文字の駒名は、日本での創生ではなく、中国が起源である可能性が高い。

3)駒名と陰陽五行との関連から、呪術としての将棋の存在が確実である(古代の将棋を遊戯という観点だけで捉えるのは間違いである)。

 

ところで、玄怪録に比喩として登場する将棋についてですが(前稿では、宝応将棋と呼びました)、どのようなサイズの将棋だとお思いでしょうか。Webや単行本で強調されているのは、たいてい、駒の動きが説明されている箇所であり、そこでは4個の駒(天馬・上将・輜車・歩兵)の動きだけが紹介されています。そのため、駒名が二文字だということも相まって、小将棋(=現代将棋)が連想されている(前提になっている)場合が多いのではないでしょうか。しかし、玄怪録の全体の文章を読めばわかるように、宝応将棋は大型将棋でなければなりません。兵士は多数いるのです。

 

兵士の数の多さは文学上の比喩だと思われる方もいるでしょう。この点は、思いようであり、結論は出ないわけですが、本ブログでは、駒の数も、きちんと表現されていると考えます。玄怪録と同じような夢物語が、盤双六についても見つかっていますと、前稿235)で少し紹介しましたが、その物語では、登場人物の数は、きちんと30人で、サイコロの比喩としての妖怪は2体です。これが、駒の動きと同様、将棋の駒の数もほぼ正しく表現されているだろうと考える理由です。

 

玄怪録には「数百人」と書かれています。想定されているのは、摩訶大将棋ぐらいの将棋か、または、もっと大きい将棋なのでしょう。しかし、多数の駒数(正確には多くの駒種)は、十干十二支の組み合わせから駒を作っていくわけですから、当然必要となります。

 

このように、起源の将棋が、陰陽道の五行と十二支に則って設計されたとするならば、それは大型将棋でなければなりません。これまで、摩訶大将棋起源説の根拠を少しづつ積み重ねていく過程で、次第に、摩訶大将棋が呪術としての将棋であることも見えてきたのですが、実は、これは当然の結果だったわけです。つまり、将棋の起源=呪術の将棋=大型将棋なのですから。

 

2018年

3月

13日

235)宝応将棋の存在可能性:陰陽五行の観点から

宝応将棋は「玄怪録」の中の物語に登場します。将棋史に興味を持たれる方々には周知の事柄であるため詳細はWeb検索に任せますが、本ブログでも、かなり初期の段階から注目をしてきました。投稿27)投稿110)を参照下さい。以前の考えですので、ぽつぽつと間違いも見られますのでご注意のほど。

 

宝応将棋は、宝応象棋、宝応象戯と書かれることもありますが、本稿では、将棋との関連を重要視する立場ですので、宝応将棋と書きます。ところで、宝応将棋については、これが物語の中の記載であるため、歴史的事実とみることはできず、将棋史解明の資料とする根拠が薄いという指摘もあります。ただ、ごく最近、同じ唐の時代に、夢の中で盤双六を比喩した物語が見つけられており、その記述内容が、きちんと盤双六のルールの文学的表現となっていることが確認できます。やはり、盤双六のひとつひとつの駒が人に対応して話が進み、夢がさめて物語が終わるという構成です(まだ論文発行前ですので、発行後にこの詳細とりあげます)。したがって、宝応将棋も同様に、その当時存在したであろう「将棋」をなぞっている可能性が十分にあり得るのです。

 

こうした前提で、宝応将棋の記述からにじみ出る陰陽五行の話題を取り上げます。本稿、宝応将棋の存在可能性を示すひとつの根拠にできればと考えます。

 

宝応将棋の物語には、「六甲」という語句が現れますが、この六甲の解釈には諸説あります。しかし、これは、文字通りで、干支の60種類の並びのうちの6種(きのえ(甲)と十二支の組み合わせ)と考えていいのではないでしょうか。では、何が十干に対応し、何が十二支に対応するかということですが、これについては、残された物語自体が断片的ですので、ある程度は推定にならざるを得ません。本稿では、物語中から語句を拾い、語順にこだわり、ひとまずは、次のように考えてみました。もちろん、陰陽の区別は知りようもありません(字にはこだわらなくてもいいかもですが)。

 

十干: 天・金・上・輜・歩・・・・

十二支:馬・象・将・車・兵(卒)・士・・・・

 

十干と十二支の順については、ひとまず問わないとして、次の干支を作ることができるでしょう。天馬、金象、上将、輜車、歩兵、・・・

 

まあ、これだけの話しではありますが、いろいろな方向に仮想することが可能です。たとえば、十二支の語句のみ設定し、十干の名称は表には現れないとしましょう。六甲であれば、

甲馬・甲象・甲将・甲車・甲兵(卒)・甲士

という具合です。この場合、馬・象・将・・・は、隣り合って並んでいてはだめで、並びはひとつ置きである必要があります。その上で、甲という語句は表に出さず、語句を、甲馬-->天馬、甲象-->金象、甲将-->上将と置きかえていけばいいわけです。

 

しかし、なお問題は残るでしょう。上の場合、干支60種の中に現れる十二支の数、つまり、馬、象、将・・の数は、10である必要があります(六甲が6、六乙が6、六丙が・・・ですから)。ただ、本稿、そこまでの細かな話しまで入るつもりはなく(そもそも、詳細な解明ができるほどの資料もありません)、六甲と六乙で、つまり、五行のひとつひとつのグループで性質が似通っていればよしとしています。それが、前稿234)で述べた、摩訶大将棋の駒のグルーピングです。前稿では、仮にですが、五行の木のグループを人の駒、火のグループを獣の駒、土のグループを・・・とし、各グループに属する駒が非常に明解な類似性を持つことを示したわけです。結果として、このグルーピングの方法、つまり、陰陽五行に注目するという方法論の妥当性が示されたのではないでしょうか。

 

宝応将棋の物語の語句だけで陰陽五行との関連を主張しても、あまり迫力はないでしょうが、摩訶大将棋が陰陽五行に基づいて設計されていることを考えれば、宝応将棋も陰陽五行の将棋だと見ていいかも知れません。また、宝応将棋に陰陽五行が見えること自体、実際に存在した将棋であることの現れと見ていいでしょう。

 

(続きは、次の投稿にします)

 

2018年

3月

11日

234)摩訶大将棋の陰陽五行:駒のグルーピング

陰陽五行に対応させた駒のグルーピング(一例)
陰陽五行に対応させた駒のグルーピング(一例)

右の図は、駒のグルーピングの一例です。ただ、実際どうであったのかを知るのはたぶん無理です。

 

摩訶大将棋の駒(表)の種類は50種類、成り駒(裏)は24種類あります(成金も1種類とカウント)。干支として60種類を選ぶことになりますが、その選び方はいくつかあり得ます。

 

駒(表)を、次のように、人の駒、獣の駒、踊り駒、走り駒に分けた場合、駒の種類は、それぞれ、12、12、12、14種類となります。

◎人の駒(12種類)

玉将・金将・将・将・将・将・将・・提婆・無明・仲人・歩兵

獣の駒(12種類)

酔象・盲虎・盲熊・猛豹・臥龍・古猿・蟠蛇・淮鶏。猫又・嗔猪・悪狼・老鼠

踊り駒(12種類)

師子・狛犬・鳳凰・麒麟・力士・金剛・羅刹・夜叉・飛龍・猛牛・桂馬・驢馬

走り駒(14種類)

奔王・摩𩹄・鉤行・龍馬・龍王・角行・飛車・竪行・横行・左車・右車・横飛・反車・香車

 

上図では、走り駒14種類のうち12種類を選んでいますが(横飛・反車を不採用)、走り駒を選ばずに、人の駒・獣の駒・踊り駒・人の駒(成り)・獣の駒(成り)を5グループに選んだ場合は、60種類の干支をきっちり揃えることができます。このあたり、結論は決まりません。しかし、陰陽五行の仕組みで持って、摩訶大将棋が設計されていることは感じていただけるのではないでしょうか。

 

念のための説明となりますが、陰陽五行と駒との対応については、以下のように考えています。

 

1)上図で、五行1〜5が、木火土金水のいずれかに対応することになります。たとえば、五行1が木だとすれば、陽の列の6駒が甲(きのえ)、陰の列の6駒が乙(きのと)に対応します。したがって、このように想定した場合、六甲に対応する駒は、玉将・金将・銅将・瓦将・仲人・無明ということになります。六乙は、歩兵、銀将、鉄将、石将、土将、提婆となります。

 

2)五行への駒の分類は、駒の名称(人の駒、獣の駒)または、駒の機能(歩き駒、踊り駒、走り駒)によっていますが、各五行での陰陽の割り振りは、駒が動く方向に注目します。個々の説明は、長くなりますから、次の3例のみ挙げておきます。

◎ 駒の動きが上下反転:金将と銀将、蟠蛇と淮鶏、臥龍と古猿、等で陰陽のペアとなる。

◎ 駒の動きが竪横と斜め:嗔猪と猫又、力士と金剛、飛車と角行、等で陰陽のペアとなる。

◎ 後ろへの動きの有無:銅将と鉄将、瓦将と石将、等で陰陽のペアとなる。

その他いろいろな対比パターンが考えられますが、単に陰陽に割り振っただけというのでもいいかも知れません。

 

以下、銀将、臥龍、嗔猪、老鼠、仲人の動きの変更についての考え方を書きます。ただ、陰陽五行からのアプローチだけで、動きの変更を確定させるのはむずかしいでしょう。この5駒の中では、銀将と臥龍については、変更してもOKだろうという程度です(つまり、駒の動き2018春版のところまでは変更してもOKではないか、ということです)。

 

銀将と臥龍の動きについて:

2018春版の該当箇所は、次のとおりです。下図では、すでに、銀将と臥龍の動きは変更されています。変更前は、銀将と臥龍の動きが入れ替わった状態です。どちらが自然な並びなのかということで、動きの変更のするしないを決めています。

 

(2018春版:=象戯圖の延年大将棋の図も参考。一部に陰陽五行も考慮。

最下段:陰陽のペアが、隣同士で並んでいます。つまり、金将と銀将、銅将と鉄将、瓦将と石将がペアになっています。また、提婆と無明も、玉将を挟んで陰陽のペアです。

下から2段目:やはり、陰陽のペアが、隣同士で並んでいます。つまり、酔象と盲虎、蟠蛇と淮鶏、臥龍と古猿がペアです。

 

(2018春版で銀将と臥龍の動きが入れ替わった状態)

陰陽のペアは、金将と銀将、臥龍と古猿の2箇所で崩れることになります。

 

(2014秋版:=象戯圖の摩訶大将棋の図の記載どおり)

 蟠蛇の駒の弱さが不自然。金将と銀将、蟠蛇と淮鶏、臥龍と古猿にペアの性質なし。

 

2018春版の駒の動き:隣同士の駒の動きに深い関連性が見られる。銀将と臥龍の動き変更が最重要点。     
2018春版の駒の動き:隣同士の駒の動きに深い関連性が見られる。銀将と臥龍の動き変更が最重要点。     
2014秋版の駒の動き:蟠蛇の駒の弱さが不自然。金将と銀将、蟠蛇と淮鶏、臥龍と古猿にペアの性質なし。
2014秋版の駒の動き:蟠蛇の駒の弱さが不自然。金将と銀将、蟠蛇と淮鶏、臥龍と古猿にペアの性質なし。

 

(あと少し書きます)

 

2018年

3月

11日

233)陰陽五行からのアプローチ:摩訶大将棋の復刻の方法論

摩訶大将棋の駒の動き方(陰陽五行を考慮した場合)
摩訶大将棋の駒の動き方(陰陽五行を考慮した場合)

 

上図は、陰陽五行を考慮した場合の駒の動きで、2018春版からは、さらに、仲人、嗔猪、老鼠が変更されています。この変更の理由は、前稿232)で挙げた銀将、臥龍の変更と同じ理由です。しかし、上図を2018春版として採用しなかったのは、摩訶大将棋の復刻のキーポイントとなった仲人の変更があるからです。もうかなり長い間、仲人は前後左右に歩く駒として対局をしてきました。それと、もっと重要な1点、文献学からのきちんとしたフォローがまだ見つかっていないという点も大きいでしょう(多少はあるのですが)。ともあれ、16日からの摩訶大将棋展2018では、この摩訶大将棋に仕組まれた陰陽五行のことは大きな話題のひとつでもあります。納得していただけるのかどうか。

 

呪術としての将棋を考慮していない将棋史の研究などあり得ないと最近は思っています。将棋を遊戯としてだけ捉えている限り、将棋史の解明は無理ではないでしょうか。

 

十二支があるのに、十干がなく、なぜだろうとずっと考えていました。しかし、実は、木火土金水の駒がそれぞれ12枚ずつ含まれています。その12枚の駒は、6枚ずつ陰陽2つのグループに分かれます。まさに「律呂」です。象戯圖の冒頭の序文を思い返してみて下さい。まず、天文の駒のことが書かれ、次に地理の駒のことが書かれ、その次に、陰陽、律呂のことが書かれています。象戯圖は、言うなれば、呪術の秘密を書いた巻物ですから、読み解けば、全部の文脈が意味を持っているのかも知れません。

 

陰陽は名称ではなく駒の動きで示されています。五行を形成するそれぞれの駒を、陰陽に分け、十干とし、十二支と組み合わす。このように、摩訶大将棋はいちからきちんと設計された将棋であるということが明らかです。そのことは、摩訶大将棋が小さな将棋から徐々に進化して出来上がった将棋ではないことを示しています。

 

最後に1点。歩兵と同じで、後ろに戻れない仲人、まだ試していませんが、遊戯としてもこちらの方が。

 

(もう少し書くかもです。とりあえずいったん置きます。)

 

2018年

3月

10日

232)摩訶大将棋の駒の動き方:2018春版

摩訶大将棋の駒の動き方(2018春版)
摩訶大将棋の駒の動き方(2018春版)

 

同じ話題は、投稿227)にて投稿していますが、中途半端な投稿になっています。それで、かなりだぶりますが、別観点も含めつつ、再度ある程度きちんと書くことにしました。上図は、投稿227)で2018冬版とした図と同じ図です。

 

参考とするのは、基本的には、象戯圖の摩訶大将棋の図ですが、延年大将棋の図も重要視するというのが発見のきっかけとなりました。延年大将棋の図の方を正しいとすることで、これまで持っていた疑問点がなくなり、摩訶大将棋に仕組まれた陰陽五行を見ることができます。ここしばらくは、この点について、きちんと説明していきます。

 

2014秋版からの変更点は次のとおりです(新しい解明がありましたのでルールも変更されていますが、本稿では、駒の動きの変更だけに議論を限定します。)。

1)蟠蛇(摩訶大将棋の図よりも延年大将棋の図を信頼)

2)提婆・無明(同じく、摩訶大将棋の図よりも延年大将棋の図を信頼

3)淮鶏(使用可能な歩き駒パターンから妥当な動きを選択)

4)銀将・臥龍(陰陽五行からのアプローチ) <--- 別稿にて後日解説します。

 

なお、2018春版では、4)までを取り入れていますが、コンピュータ摩訶大将棋には採用していません。対局にはほとんど影響しないということもありますが、十分に周知されている銀将の動きの変更を多少とも気にかけたということです(桂馬の動きが、現代将棋と大型将棋で違いますので、それほど気にすることもないのですが)。また、陰陽五行の観点からアプローチすることで、あと3駒、動きが変更となりそうですので、この変更を合わせて行いたいということもあります。(摩訶大将棋にまだ復刻の余地が残っていたとは思っていませんでした。)

 

まず、上記1)と2)から説明します。以下に置きました、2014秋版と上の2018春版の動きの全体を比べてみて下さい。

 

摩訶大将棋の駒の動き方(2014秋版)
摩訶大将棋の駒の動き方(2014秋版)

 

2014秋版では、蟠蛇の動きがおかしいことに気づかれると思います。両横の駒の動きを見る限り、蟠蛇はもっと強い動きの駒であるべきなのです。しかし、復刻ということを意識していましたので、記載されている限りそのとおりを採用すべきという考えが、2014年当時にはありました。同じような不自然さが、提婆と無明の動きにも見られるのです。金将よりも中央にあるのに、金将よりも動きが弱い。

 

蟠蛇・提婆・無明の2018春版の動きは、延年大将棋の図の方を信頼した結果です。これと連動し、淮鶏の動きは変更されなければなりません。蟠蛇2018の動きが、淮鶏2014の動きと同じだからです。そこで、淮鶏の動きの変更先を探すことになりますが、残された動きのパターンは3つしかありません。この中で、最も妥当な動きのパターンを、淮鶏2018の動きと推定しました。

 

2018年

3月

09日

231)プリンセス金魚杯予選:摩訶大将棋展2018 Spring

準備が大変遅くなってしまいました。

予選に参加いただける皆様、対局希望日時をお知らせ下さい。念のため、90分の時間確保をお願いします。ネットワーク対局の体験版をお送りします(接続のIPアドレスは、対局の直前にお知らせします)。

 

プリンセス金魚杯予選

日程: 予選:3月10日・11日・12日・13日・14日

R8:15日・16日  準決勝:17日  決勝:18日13:30(予定)

時間:平日は18:00〜23:00の時間帯。土日は12:00〜23:00の時間帯。

持ち時間:20分・秒読み30秒3回(数秒の時間誤差を見込んで下さい。秒読み20秒と考えていただいたら確実です)

参加費:無料

動作環境:adobe AIRのランタイム最新版がインストールされていること。

お問い合わせ先:takami@maka-dai-shogi.jp

 

今回、時間がなく、インストールのマニュアルが用意できていません。adobe AIRのランタイムや、インストール時のトラブルについては個別対応ができない状況です。どうぞご了承下さいませ。次回のトーナメント戦までには作ります。

 

ルール:

仲人:居喰いでしか取れません。

提婆・無明・教王・法性:互いに取り合いはできません。

玉将を取る他に、「奔王を出して勝」ルールも採用します(奔王が敵陣最下段から敵陣4段目までの間に入れば勝ち。ただし、敵駒の利きがないこと)。

 

とり急ぎ投稿します。(本稿、まだ追加・修正します)

 

 

 

2018年

2月

12日

230)摩訶大将棋展2018 Spring:2018年3月16日〜18日

摩訶大将棋展2018 Springのお知らせです。ひとまず、日程と場所を投稿します。

内容は、順次ここに書き加えていきます。

 

日時: 2018年3月16日(金)13:00〜18:00(初日は午後1時からです)

         3月17日(土)11:00〜18:00

         3月18日(日)11:00〜18:00

 

場所: 「ならまち村」ギャラリー(奈良市南市町14-1)

入場料: 無料

 

主催: 日本摩訶大将棋連盟

後援: ゲーム学会

協力: 大阪電気通信大学 高見研究室

お問い合わせ先: takami@maka-dai-shogi.jp

 

ポスター展示&解説:

 今回は3日間の展示です。時間は十分ありますので、学術的な解説もカバーできそうです。取り扱うテーマは、将棋の起源、大型将棋史、摩訶大将棋の復刻、呪術と摩訶大将棋、玉将=薬師如来説、大将棋の復刻です。

 解説の資料および題材として、将棋史に関するすべての論文(日本で出版された論文のみ)を揃えておきます。加えて、ほぼすべての将棋史関連書籍、ほぼすべての古文書(将棋史関連のみ)、出土駒に関する資料も持って行きます。資料のリストは、後日、本稿からのリンクにて論文名、書名等を一覧します。

 ポスター展示で興味を持たれる話題には、関連する論文や書籍を、その場ですぐ読んでいただけます。できれば、資料の全部を机の上に並べておきたいのですが、対局会もありますし、スペースが足りません。たぶん、いくつかの箱の中に入れておいて、その都度、スタッフの方からお渡しする形になると思います。

 

対局会:

 体験対局コーナーのほか、トーナメント戦(プリンセス金魚杯)の準決勝、決勝を行う予定です。準々決勝までは、ネットワーク対局(今回、はじめて採用)も取り混ぜて実施します。予選ができればいいかも知れません。勝ち上がりは、たぶん、関西在住のメンバーになると思いますが、もし、遠方の方が残る場合、準決勝、決勝もネットワーク対局で対応したく思います(来ていただくのも大歓迎です)。後日、本ブログにて日程をアナウンスさせていただきますが、摩訶大将棋をやり始めの皆様も是非ご参加下さい。

 

摩訶大将棋の駒将棋盤

 1)天童の駒師さんに書いていただいた黄楊の駒 & 杉の将棋盤

 2)コンピュータ摩訶大将棋 & 水平ディスプレイ

 

次の最近の話題も展示する予定です。次のブログリンクを参照下さい。

233)陰陽五行からのアプローチ:摩訶大将棋の復刻の方法論

234)摩訶大将棋の陰陽五行:駒のグルーピング

235)宝応将棋の存在可能性:陰陽五行の観点から

236)駒名が二文字である理由:陰陽五行(干支)からの帰結

237)天変地異と摩訶大将棋:隕石と玉と将棋と薬師如来

 

(更新履歴)

2018-02-16 開催時間を3日間とも18:00までに変更

2018-03-09 資料一覧の項(書籍・古文書)を追加(まだ追加します) 

2018-03-13 資料一覧の項(論文)を一部追加(まだ追加します) 

2018-03-14 最近の話題の項を追加 

 

摩訶大将棋展2018 Springの会場に用意する資料を以下に一覧します。

 

論文:(少しづつ追加していきます)

田中規之,十五世紀の将棋愛好者たち――室町期の四つの日記から

 遊戯史研究第29号,17-72,2017

高見友幸,中根康之,原久子摩訶大将棋の復刻

 大阪電気通信大学人間科学研究第19号63-80,2017.

高見友幸,中根康之,原久子,大型将棋の成立順に関する考察,

 映情学技報,Vol.40,No.11,AIT2016-86,147-150,2016.

古作登,各種大型将棋成立の背景に関する考察 ―なぜ中将棋や泰将棋が作られたのか―,

 大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要第18号,87-100,2016.

清水康二,「一条帝宮廷サロン将棋発祥説」批判,

 大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要第18号,225-242,2016.

鈴木一議,名勝奈良公園・興福寺旧境内,

 奈良県遺跡調査概報年度(第二分冊) 奈良県立橿原考古学研究所,2015.

古作登,最古期の日本の将棋「平安将棋」から「平安大将棋」、「大将棋」への進化に関する考察 -取り入れられた駒の性能、命名の理由を推測する-

 大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要第17号,85-104,2015.

古作登,平安時代の「酔象」駒発見から日本将棋の進化過程を推察する ─将棋は仏教寺院で仏典を参考に改良が進められた─

 大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要第17号,141-165,2014.

清水康二,「庶民の遊戯である将棋」考,

 橿原考古学研究所紀要 第37冊,49-59,2014.

清水康二,将棋伝来再考,

 橿原考古学研究所紀要 考古学論攷 第36冊,2013.

木村義徳,将棋の日本到着時期をめぐって ー増川宏一説に対する批判ー,

 桃山学院大学総合研究所紀要 第30巻 第2号,45-59,2004.

大下博昭,中世日本における将棋とその変遷,

 日本研究14巻,23-35,2000.

 

書籍:(少しづつ追加していきます)

将棋の庶民史,山本亨介,朝日新聞社,1972.

五行大義,中村璋八明徳出版社1973.

将棋文化史,山本亨介,光風社書店,1973.

ものと人間の文化史23-I(将棋I),増川宏一,法政大学出版局,1977.

ものと人間の文化史23-II(将棋Ⅱ),増川宏一,法政大学出版局,1985.

遊芸師の誕生 碁打ち・将棋指しの中世史,増川宏一,平凡社選書111,1987.

将棋の民俗学,天狗太郎,作品社,1992.

将棋歳時記,大竹延,創樹社,1992.

将棋の博物誌,越智信義,三一書房,1995.

碁打ち・将棋指しの誕生,増川宏一,平凡社,1995.

将棋の神秘 ジャンボ将棋の世界,長尾幸治,近代文藝社,1996.

将棋の起源,増川宏一,平凡社,1996.

将棋の来た道,大内延介,小学館文庫,1998.

将棋の駒はなぜ40枚か,増川宏一,集英社新書,2000.

持駒使用の謎 日本将棋の起源,木村義徳,日本将棋連盟,2001.

日本文化としての将棋,尾本惠市,三元社,2002.

囲碁はなぜ交点に石を置くのか,永松憲一,新風舎,2002.

将棋の駒はなぜ五角形なのか,永松憲一,新風舎,2003.

盤上遊戯の世界史,増川宏一,平凡社,2010.

将棋の歴史,増川宏一,平凡社新書,2013.

将棋指しすせそ ー世界の将棋のカラクリ・日本の将棋のひみつー,宮川 亮,2013.

日本遊戯思想史,増川宏一,平凡社,2014.

解明:将棋伝来の「謎」,松岡信行,大阪商業大学アミューズメント産業研究所,2014.

獅子と狛犬,MIHO MUSEUM,青幻舎,2014.

 

古文書:(あと少しあります)

象棊纂圖部類抄,水無瀬兼成,東京都立図書館,1592.

象戯圖,水無瀬兼成,島本町立歴史文化資料館(パンフレット),1592.

諸象戯圖式,国立公文書館,1696.

古今将棊圖彙,東京国立博物館,1697.

大象棋絹篩,国立国会図書館,1821.

象棋六種之図式(雜藝叢書第一), 国書刊行会,1915.

古事類苑 方技部,吉川弘文館,1970.

古事類苑 遊戯部,吉川弘文館,1997.

 

2018年

1月

20日

229)摩訶大将棋のイベント2(JR大阪駅前:グランフロント大阪)

前稿からの続きです。

 

対局エリア(摩訶大将棋:5対局、五目将棋摩訶:3対局)について

 

五目将棋摩訶は、将棋に近い、五目並べだと思って下さい。面白いです。摩訶大将棋がはじめての方は、走り駒の動きを覚えるために、はじめに五目将棋摩訶(19枚だけ駒を使います)を2回ほどしてから、摩訶大将棋の対局をされたらいかがでしょう。

 

摩訶大将棋の対局のルール

基本的なことは、会場で聞いていただくとして、以下、これまでに対局経験のある方に対してです。

 

○ 持ち時間20分、秒読み30秒3回。はじめての方は、20分だけ体験すると思っていただけたらと思います。たいていは、時間切れ負けになります。

 

○ 仲人は、居喰いでしか取れません。つまり、仲人がいるマスには、他の駒は進めません。

仲人が駒を取り、奔人に成った場合は、取ってよい駒となります。

 

○ 淮鶏、蟠蛇、無明、提婆の動きが変更となっています。対局にはほとんど影響ありませんが、お知らせです。

 

○ 麒麟と鳳凰は踊り駒です。3年ぶりで対局される方おられましたらご注意下さい。中将棋を知っているという人もご注意を。

 

○ 師子は居喰い(隣接するマスにいる敵駒を動かずに取る)で、2枚の駒を同時に取ることができます。狛犬は3枚同時の居喰いができるというルールにしています。この点、疑問をお持ちでしたらお尋ね下さい。

 

○ 無明、法性、提婆、教王は、互いに取ることができません。

 

大将棋の盤面例
大将棋の盤面例

 

ここでは、摩訶大将棋でなく、大将棋の盤面例を掲載しておきます。大将棋の復刻もほぼ完了しています。後手、悪手を連続し、師子にやられてぼろ負けです。Ddの仲人は、龍王の利きを防いでいることに注意して下さい。それと、石将が奔石に成っていることにもご注意を。今回は、摩訶大将棋だけを対象に展示・対局会をしていますが、3月は、大将棋も入れて(五目将棋摩訶も)のトーナメント戦をしたく思います。

 

2018年

1月

20日

228)摩訶大将棋のイベント1(JR大阪駅前:グランフロント大阪)

直前での紹介になってしまいましたが、明日出かける直前に確認される方もおられるかも知れませんので、概略を投稿します。アナウンスがいつも遅くてすいません。

 

展示エリアでの解説(パネル15枚、古文書2点、天童の駒師さんに書いていただいた摩訶大将棋の駒を用意しています)

解説の要点は次のとおりです。私が対局中でしたら、30分〜40分ほどお待ちいただけますでしょうか。

○ 摩訶大将棋の復刻について:

実例の紹介、古文書の読み解きを解説いたします。非常に多く、時間もかかりますが、興味をお持ちでしたら全部説明いたします。遠慮なくお声がけ下さい。

 

○ 将棋の起源について:

大型将棋、小将棋(平安将棋)を含めて、成立順を検討します。結果は、摩訶大将棋がどうも最初に作られたようです。たいていの人には賛同してもらえていますので、論理的に妥当なのだろうと思います。絶対の根拠というのは、きちんとした文献がありませんので、むずかしいですが、小さな根拠が多数あり、それらが全部、同じ結論(=摩訶大将棋が起源)の方を向いていますので、たぶん、この結論が逆転することはないのではという予想です。

 

このテーマ、反論はまだどなたからも出されていません。これは、これまでの仮説(平安将棋が起源)が、何かの根拠に基づいたものではないということによります。まず、これまでなぜ、小将棋が起源だと思われてきたのかを説明した後、その説明をひとつづつ崩していきます。会場にて、直接にディスカッションいただけるのもとても有難いです。最近、古文書だけでなく、出土駒からのアプローチも始めていますが、こちらの方も、矛盾がでていません。はっきりとした結論はまだ無理だとしても、大型将棋は、将棋の起源や伝来の考察の際、無視してはいけない、というのは確かな結論でしょう。

 

 

将棋の起源と少し関連しますので、呪術としての摩訶大将棋も話題にします。天変地異と摩訶大将棋の話です。

 

2018年

1月

20日

227)摩訶大将棋の駒の動き方:2018冬版

摩訶大将棋の駒の動きについては、投稿117)にて、2014秋版ということで投稿されています。本稿の2018冬版では、6つの歩き駒が変更されています(正しい動きに変更しました、ということです)。次の駒です。

 蟠蛇、淮鶏、提婆、無明、臥龍、銀将

現時点では、このうち、臥龍と銀将を除く4駒の変更が、アドバンスド摩訶大将棋でも使われています。対局観は、2014秋版と2018冬版とで全く変化なしと言ってよいでしょう。摩訶大将棋では、強い走り駒、踊り駒が多数ありますので、歩き駒の動きがいくつか変わったぐらいでは、全く影響ありません。

 

それよりも、正しく復刻されたことによって、大型将棋の起源=摩訶大将棋であることが、より明瞭になったと思います。駒の動きは、次のとおりです。2014秋版と比べて見て下さい。

 

摩訶大将棋の駒の動き方(2018冬版)
摩訶大将棋の駒の動き方(2018冬版)

 

参考にすべき古文書は象戯圖たった1冊なのだから、復刻はすぐできると思われるかも知れません。私もそう思っていたのですが、実際は、全然そうではない。これで復刻は終わった、と何回思ったことでしょう。今回は、蟠蛇の動きの修正がきっかけで、銀将の動きの修正までいきました。

 

変更の根拠については、後日詳しく書きますが、蟠蛇は摩訶大将棋の箇所の表記でなく、延年大将棋の箇所の表記に従うべきです。つまり、曼殊院の本よりは、行然和尚の情報の方が正しかったということです。同じく、提婆と無明の動きも、延年大将棋の箇所の表記が正しいでしょう。また、蟠蛇の動きの変更と連動して、淮鶏の動きも変わります。ここまでは、確実な復刻のはず。

 

このあたりになると、摩訶大将棋に仕組まれた、駒の動き方の設計が見えてきます。この話題、引き続き、次の投稿とします。

 

2018年

1月

19日

226)平安将棋の銀将の動き

前稿の補足です。右図のペア5組を、陰陽五行の駒としているわけではありません。

 

右図のペア5組は、前後の動きが逆になるもの4組、左右の動きが逆になるもの1組です。これらのペア5組は、初期位置の並びから、動きを知ることができます。たとえば、淮鶏と蟠蛇、臥龍と古猿、これらの横並びの駒は、ペアの動きとなるように仕組まれています。

 

横並びの金将と銀将、金将はななめ後ろに進めませんが、銀将はその逆で、ななめ前には進めません。さて、とある二中歴の写本が見つかり、「銀将不行左右上」と書かれていることがあったりするでしょうか、どうでしょう。

 

古代日本の将棋では、桂馬の動きが今とは違うわけですが、さらに、銀将の動きも違っていた可能性がありそうです。

 

2018年

1月

18日

225)摩訶大将棋の陰陽五行

短くですが、書きます。

摩訶大将棋が起源の将棋であること、将棋の成立順のこと(摩訶大将棋-->大将棋-->平安大将棋-->平安将棋)が、固まりつつあるわけですが、かなり長い間、1点だけ、解けずにいた疑問がありました。摩訶大将棋に含まれる陰陽五行のことです。摩訶大将棋が、古代日本の呪術である限り、十二支と同じように、陰陽五行が含まれないと、おかしいわけですが、何がそれに相当するのかというのがわからずにいました。

 

今週末、グランフロント大阪で、摩訶大将棋の展示・対局会をするのですが、ネットワーク対局版の配布と並ぶ、大きな発表はこの陰陽五行のことです。ただ、パネルが間に合うのかどうか。。。

 

いちおう、図面だけ付けておきます。いくつか歩き駒の動き(淮鶏、臥龍、無明とかです)が違うと気づく人は、20人ほどしかいない思います。ただ、動きはこれで確かです。理由は長くなりますので、後日書きます。そういう人でも、銀将の動きの方は、間違っていると言うでしょう。が、正しいと思います。この件、陰陽五行の副産物です。

 

 

図面の説明なしで、古文書の根拠もなしだと、無視する方もありそうですが、実は、文献学が発端です。上の図に陰陽五行の全部が載っているわけではないのですが、まず、一番重要なことを、書いてしまおうということで、この断片を選びました。まず、淮鶏と蟠蛇がわかりました。提婆と無明も古文書からです。銀将の動きも一部、古文書が関係しています。金と銀でペアです。これは、象と虎の動きがペア、鶏と蛇の動き、臥と猿の動きがペアなのと同じです。

 

二中歴の銀のところ、「不行左右下」を、左右と下に行かず、と読むべきではなく、ここは、左右の下に行かず、と読むのではないでしょうか(このままだと金将ですが)。もしそうだとすれば、二中歴の記述は、摩訶大将棋の陰陽五行の傍証になります。そして、誰かが、不行左右上とすべきところ、不行左右下と写本してしまったばかりに、銀将は、今ある銀の動きになってしまいました。今さら変更するわけにもいきませんが、摩訶大将棋と大将棋の銀将は、通説の臥龍の動きだったでしょう。

 

さらさらと脈絡もなく書いてしまいましたが、このままで投稿します。

 

2017年

12月

10日

224)仲人は取ることのできない駒(3)

今日も引用です。

 

------(以下、引用)

図2に,摩訶大将棋の中盤の盤面例を,コンピュータ摩訶大将棋の盤面を使って示した。仲人は師子や狛犬が近傍にいない限り取られることはないため,図の盤面では,先手の仲人が積極的に前方に進んでいる。仲人は,主に,敵の走り駒の動きを制限するために使われることになる。仲人のルールが新しく追加された結果,摩訶大将棋がより豊かな面白さを獲得するのか,または,逆に面白さを減らすことになるのかは,実際の対局によってのみ知ることができる。

 

図は,先手Sf桂馬と進めた場面であるが,これは先手の失着であり,後手Sf 無明成り(法性に成る)とすれば,後手の法性が確定する。

 

図2.中盤の盤面例.
図2.中盤の盤面例.

2017年

12月

07日

223)仲人は取ることのできない駒(2)

また引用です。

 

------(以下、引用)

仲人は取ることができない駒である。これは,我々が提案した新しいルールなのではなく,古文書の解読から得られたルール,大型将棋の復刻の結果である。平安時代では,そのようなルールで対局されていたと見る。ただし,このような駒は,現代将棋にも世界の他の将棋類にも見当たらない。見当たらないという点では,飛び越した敵駒を取ることができる「踊り」や,動かずに敵駒を取ることのできる「居喰い」も同様で,世界のどの将棋類にもない,独特の機能なのである。古代日本の大型将棋は,日本において独自の発展を遂げたものと考えてよいであろう。

 

「仲人は取ることができない」というルールのもとで,数カ月間試験対局をくり返し,検討を重ねた。その上で,遊戯という観点からも妥当なルールであると判断した次第である。なお,仲人のこのルールは,摩訶大将棋の戦法の幅を大きく広げる結果となったことも付記しておきたい。

 

2017年

12月

06日

222)仲人は取ることのできない駒(1)

今日も引用です。ただ、本ブログでも、次の投稿で関連の考察をしています。

172)再考:仲人の駒の謎2015年11月3日

初期の頃の考察です。さらにご興味おありの方は、次の投稿も参照下さい。3年前の投稿、センチメンタルかも知れません。この頃が初出です。

 

116)仲人の駒の謎:象棊纂圖部類抄より2014年10月20日

117)摩訶大将棋の駒の動き方:2014秋版2014年10月24日

 

最近の投稿(218:詰め大将棋)でも書きましたが、今は、摩訶大将棋、大将棋とも、仲人は居喰い以外では取ることができないルールで対局がなされています。

 

------(以下、引用)

象戯圖の中将棋の記述箇所,仲人の項に,次の注釈が書かれている。

  不行傍立聖目内

  或説云居喫師子許也

  鳳凰仲人等行度如大象戯

文献[4]では,この注釈部の解読から,仲人の動きが復刻された。その要点を述べると,象戯圖の中将棋の記述箇所は,中将棋のルールの中で注意すべき点だけを列挙したものだと考える点である。

 

さて,本稿において注目するのは,「或説云居喫師子許也」の記述である。「ある説によれば,師子で(仲人を)居喰いすることが可能」,と書かれている。「或説云」という記述は,ある説以外の説が主流であるという前提でなければならない。つまり,「居喫師子許也」の意味としては,通常では,師子は(仲人を)居喰いができないが,ある説によると,居喰いができると言っているのである。

 

師子が居喰いできるのは当然のことで,では,なぜこのような記述がなされているのか。問題は師子ではなく,仲人の方にあると考えればよい。

 

仲人のいる位置には敵駒は進めないというルールがあった,そう解釈するのである。つまり,仲人は取ることのできない駒だったということである。ただし,師子は仲人を取ることができた。師子は,仲人の位置に進まずに,仲人を取る方法(=居喰い)を持っているからである。ある説というのは,このことを言っている。仲人は,ふつうは取れない駒であるが,師子の居喰いを使うなら取ることができたというわけである。象戯圖が書かれた当時,中将棋のルールの主流は,仲人はどの駒でも取ることができなかったのである。同じように、中将棋よりも以前に成立していた摩訶大将棋と大将棋の仲人も取ることができない駒だったと思われる(師子と狛犬の居喰いによれば取ることはできた)。

 

参考文献(上記引用にて引かれている文献のみ)

[4] 高見友幸,久保直子,山本博史,中根康之,原久子,大型将棋における仲人の動きについて -象戯圖と普通唱導集の解読から-,ゲーム学会第14回全国大会論文集,11-14,2016.

 

2017年

12月

05日

221)奔*の駒:鶴岡八幡宮からの出土

今日もまた引用となります。投稿215)で書きかけのまま続きを書いていなかった話題です。それから半年もたってしまいました。奔*の駒が、なぜ大将棋の復刻の正当性を裏付けるのかは、また後日に書きます。長くなる話です。

 

------(以下、引用)

表2で奔*と記載した駒は、駒の上部に「奔」の字の上部3分の1ほどが残されていた駒である.ただし,将棋史に関するすべての論文や単行本で,この駒は香車だと考えられている.出土駒の資料集[6]には写真とスケッチの掲載があるが,不明瞭のため判別はできない.原論文[7]に明瞭なスケッチがあり,これから香でなく奔と解読すべきことがわかる.この駒がなぜ香車とされてきたかについては不明であるが,その理由としては,1)駒の形状が細長いこと,2)奔と香の字体の類似,3)当初中将棋の駒とされ,大将棋は候補から除外された点等が挙げられる.形状と大きさからは,奔王と見ることはできず,成り駒の「奔*」の上部が残されたのであろう.この出土駒は,大型将棋の成立順およびそれから導かれた大将棋の復刻[4]の正当性を裏付けるものだと考える.

 

参考文献(上記引用との関連文献のみ)

[4] 高見友幸,喜田隆司,象戯圖に基づく大将棋の復刻,

国際ICT利用研究学会創立記念論文誌, 117-122,2017.

[6] 天童市将棋資料館,天童の将棋駒と全国遺跡出土駒,2003.

[7] 宇田川正宏,八幡宮弓道場跡地より出土の将棋の駒,

鎌倉考古,No.3,17-18,1980.

 

2017年

12月

04日

220)摩訶大将棋の地理の駒

引き続き、また引用です。本稿は今日書いたものではありません。地理の駒の話ですが、以前の投稿208)投稿209)投稿210)でも取り上げています。

 

------(以下、引用)

摩訶大将棋を将棋の起源とする考え方で,直観的に最もわかりやすいのは,各将棋の最下段に注目することである.図1に示されるとおり,各将棋の最下段の右側の並びは次のとおりである.

 

玉無金銀銅鉄香: 摩訶大将棋

玉金銀銅鉄桂香:   大将棋

玉金銀銅鉄桂香:    平安大将棋

玉金銀桂香:      平安将棋

 

平安将棋が起源であり,玉金銀が財宝あるいは仏教由来だとするのであれば,将棋が大きいサイズへと順次発展していったときに,銅と鉄を加え,石を加え,瓦と土を加えるという発展の仕方は考えにくい.当初の趣旨とは異なる駒名を追加し,しかも,より弱い駒を追加することで新しい将棋を作っていることになる.逆に,原初の将棋にはもともと,玉金銀銅鉄瓦石土の駒,つまり,地面の下の駒がずらりと並んでいる方が自然であろう.象戯圖の序文冒頭では,これらを上段にある天文の駒と対比させて,地理の駒と称している.

 

では,原初の将棋に地理の駒を並べた理由は何だったのか.この答えに,将棋が呪術であったことの一端が見える.地理の駒は地面を鎮めるための呪具,将棋を用いて大地震鎮圧を祈り,洪水を鎮めようとしたのである.

 

2017年

12月

03日

219)摩訶大将棋の展示・対局会:2018年1月21日(日)    (JR大阪駅前:グランフロント大阪にて開催)

少し早いですが、摩訶大将棋の展示・対局会のお知らせです。ひとまず、日程と場所を投稿します。内容は、順次ここに書き加えていきます。

 

日時:

2018年1月21日(日)11:00〜18:00

場所:グランフロント大阪ナレッジキャピタル アクティブスタジオ(北館2F)

 

展示:

摩訶大将棋の復刻に関するパネル・将棋の起源に関するパネル

詳しくは、投稿228)を参照下さい。将棋史マニアの方にも、将棋史をはじめての方にもおすすめです。将棋史のパネルを作ることができませんでしたが、パネルなしで説明いたします。

 

対局会:

詳しくは、投稿229)を参照下さい。) 

アドバンスド摩訶大将棋:4セット

将棋盤と駒:1セット

五目将棋摩訶:3セット

 

 

2017年

12月

02日

218)詰め大将棋

本投稿も書き下ろしではありません。学会の論文集からの引用です。大将棋の復刻を解説せずに、先に大将棋の詰め将棋を投稿するのは順序として逆ですが、ルールについては、たとえば、以前の投稿196)や投稿197)、投稿172)を参照下さい。現時点では、大型将棋の復刻は、摩訶大将棋と大将棋についてはほぼ完了と考えています。

 

------(以下、引用です)

作品例を以下の図に示した.作品1(左図)では,初手▲Cc師子として仲人を取ることはできない.仲人を取る手段は師子の居喰いだけであることに注意されたい.初手▲Cb師子または▲Cd師子は,奔金が利いているため成立しない.初手▲Dd師子居喰い(仲人を居喰い)が正解である.仲人が取られることで横行の横の走りが利いて,空き王手となる.

 

作品2(右図)にもあるように,大将棋では,鳳凰は奔王に成る.一方,摩訶大将棋の鳳凰は狛犬に成ることに注意したい.摩訶大将棋では,麒麟-鳳凰の一対の駒は,それぞれ,師子-狛犬といった一対の駒に成る.大将棋でこうした対応が崩れていることは,大将棋が摩訶大将棋から駒を落として作られた将棋であることを示すものである.大将棋では,師子のペアだった狛犬が落とされたため,鳳凰の成り先が奔王に変更された.

作品1:▲Dd師子居喰い,△Bc奔金,▲Cd師子の3手詰め.

作品2:▲Dd師子居喰い,△Ec盲虎成り(奔虎に成る),▲Cc師子,△同奔虎,▲同鳳凰成り(奔王に成る)まで5手詰め.

 

2017年

12月

01日

217)将棋の起源に関する話題

だいぶ日が開いてしまいました。以下、書き下ろしではありませんが、投稿します。

先月の学会発表分の予稿から、一部をそのままコピーしたものです。

 

------(以下、引用です)

図1に日本の古代から中世にかけて存在した5つの将棋を示した(この他にも,大大将棋,延年大将棋等が知られている).このうち,中将棋は他の4つの将棋よりも後に成立した将棋であるというのが通説で異論もほとんど出ていない.しかしながら,残る4つの将棋については,現状,その成立順についての考え方が大きく2分している.つまり、将棋の成立順については,

 A)平安将棋→平安大将棋→大将棋→摩訶大将棋

 B)摩訶大将棋→大将棋→平安大将棋→平安将棋

という2つの説がある.Aは起源となる将棋が平安将棋であることを,Bは起源となる将棋が摩訶大将棋であることを主張する.ここでは,仮に,Aを平安将棋起源説(以下,A説),Bを摩訶大将棋起源説(以下,B説)と呼ぶことにする.我々の研究グループはB説の立場に立っており,これまでいくつかの学会発表,論文発表を重ねてきた.本稿では,対立するA説の妥当性および疑問点をまず要約した上で本論に入っていきたい.

 

平安将棋起源説の妥当性

 1)将棋のルールを記述する最古の文献,二中歴(1210年成立との推定)には,平安将棋と平安大将棋のことが記載されており,大将棋やそれより大きい将棋についての記載はない.

 2)最古の出土駒(1058年)は,旧興福寺境内からの14駒(うち2駒が駒種不明)であるが,これらは皆,平安将棋の駒である.

 3)14世紀以前に出土した駒の総数は76個(駒種不明のものを除く)であり,うち,平安将棋の駒は64個である.また,統計を取れば,駒の出現率も平安将棋の存在を明確に示している(図3参照).

 

平安将棋起源説の疑問点

 1)11世紀の旧興福寺境内からは酔象の駒が出土しているが,この駒は平安将棋にも平安大将棋にも存在しない駒である.

 2)平安将棋が将棋の起源であるとしたとき,駒の動きが不自然である.世界の他の将棋類では,原初の将棋は前後左右とも対称な単純動きをとる.

 3)駒の名称の由来が不明である.たとえば,玉将,金将,銀将は財宝を示すものである,仏教に由来するものであるという説が提起されているが,さほど説得力のあるものとは言えない.

 4)平安将棋の初期配置では,歩兵が3列目に並び,2列目には駒がない.これも上記2)と同様,世界の他の将棋類(歩兵相当駒は2列に並び,途中に空いた列はない)と比較したとき,原初の将棋としては奇異な配置である.

 5)平安将棋は勝ち負けを決める駒の名前が王(=King)ではなく,玉将である.世界の他の将棋類がKingの駒の取り合いで勝敗が決まるのとは違っている.さらに,平安将棋では,玉将を取るのではなく,玉将以外の駒をすべて取ると勝ちというルールである.

 

 以上,A説の疑問点を5点列挙したが,B説に立てば,これら5つの疑問点はすべて説明可能となる.逆に,B説に対する疑問点は,1)古い文献に,なぜ原初の将棋である摩訶大将棋の記述が現れないのか,2)古い出土駒に,なぜ摩訶大将棋の駒が含まれないのかといった点を挙げることができる.

 B説が主張される拠り所には,古代日本に存在した原初の将棋は遊戯であると同時に呪術だったという仮説がある.当時の将棋は神様に奉納される遊戯であり呪術の一種だったと見れば,いろいろな点を統一的に説明することができる.摩訶大将棋の対局は天皇の薬師悔過であり,玉将は薬師如来の象徴と捉えるべきであるというのが,現段階の結論である.将棋史と呼ぶにはあまりにも文学的な結論ではあるが,これを支持するに足る論拠は数多い[5].

 

2017年

7月

02日

216)摩訶大将棋展2017summer:札幌(お知らせ)

前稿215の続きをまだ書いていませんが、1件とり急ぎ、お知らせの投稿です。

摩訶大将棋の展示会を北海道で初めて開催します。次のとおりです。

 

摩訶大将棋展2017summer:札幌

日時:7月6日(木)14:00-20:00

主催:日本摩訶大将棋連盟  後援:ゲーム学会

場所:わくわくホリデーホール(札幌市民ホール)2階第6会議室

札幌市中央区北1条西1丁目

地下鉄大通駅下車・31番出口正面

http://www.sapporo-shiminhall.org/access/

お問い合わせ先:takami@maka-dai-shogi.jp

 

概要:摩訶大将棋の将棋盤と駒、コンピュータ摩訶大将棋、大型将棋史の解説パネルを展示します。摩訶大将棋は古代日本で創案された大型将棋のルーツですが、最近では、現代将棋のルーツである可能性も検討され始めています。摩訶大将棋の対局体験コーナーも設けていますので、ご自由にお楽しみ下さい。

 

初めての北海道開催ですので何人ぐらいの入場者となるのか見通しがつきません。前日までに会場に来られる時間をご連絡いただきましたら、その時間に直接私がご対応・ご説明させていただきます。なお、翌日にも将棋史の談話会的な集まりを予定しています。将棋史愛好家の皆様とより詳しい意見交換を持てればと思っています。次のとおりです。

 

ゲーム学会ゲームとーくかふぇ「将棋の歴史を考える」

日時:7月7日(金)16:30-18:30

場所:札幌駅前ビジネススペース ミーティングルーム:2G

札幌市中央区北5条西6丁目1-23  第二北海道通信ビル2階

JR札幌駅西口・徒歩5分

http://sebs.pw/access.html

 

概要:日本将棋の起源と伝来についていろいろと談話できればと思っています。将棋史愛好家の皆様とのんびりとしたミーティングの場を設けました。どうぞお気軽にお越し下さいませ。次の資料2点を用意しています。

 1)象棊纂図部類抄(1592年)、諸象戯図式(1696年)

 2)資料集:天童の将棋駒と全国遺跡出土駒

 

2017年

5月

20日

215)大型将棋の成立順:考古学からの検証

大型将棋の成立順については、本ブログの投稿では、ほぼ全部が文献学、歴史学の観点からの考察となっています。しかし、得られた結論は、考古学の知見と照らし合わせても矛盾はありません。この点、一度まとめておかないといけませんので、本稿、これをテーマに書きます。物理学で言えば、理論を実験で検証するというプロセスです。

 

本ブログで得られた最重要の帰結は、摩訶大将棋が薬師信仰に基づく呪術としての将棋であるということです(※1)。だとすれば、摩訶大将棋は、天皇あるいは上皇の薬師悔過の際に用いられた将棋である可能性が高いと考えます(※2)。これらの結論は、ここまでの投稿にて何度も議論されてきたとおり、将棋の駒の名称や配置、機能によく現れています。また、薬師信仰が将棋の中にきちんと反映されていること自体、摩訶大将棋が起源の古い将棋であることを示していると言えるでしょう(※3)。

 

以上のことを前提にすれば、平安将棋や平安大将棋も、摩訶大将棋よりも後に作られた将棋であると考えるのが非常に自然です。私自身も当初は、そういうことを予期してはいなかったのですが、投稿212)で列挙したキラークエッションは、いつも疑問点として残っていました。それらのキラークエッションは、従来のどの説からも答えを導くことはできませんが、摩訶大将棋を日本将棋の起源と考えたときには、ほぼ説明がついてしまいます。この際、各クエッションに対して個別に、別個な考え方から答えが出せるのではなく、全部に統一的に、ひとつの仮説だけから答えを提示できるという点に注目して下さい。

 

金将や銀将が変な動きのルールをもつ理由と、金将銀将の由来は、同じところから来ています。それどころか、最古の出土駒の中に酔象が存在すること、桂馬や香車の由来、歩兵が3列目に並ぶこと、成りのルールの理由等、やはりすべて同じところから説明可能です。これ以外にも、いろいろな点が、すべて同じ結論(=摩訶大将棋が最初の将棋であるということ)へと向かうため、本ブログの考え方でたぶんいいのだろうという気がしています。賛同していただける方も増えてきました。一方で、答えに窮する反論はまだひとつもありません。

 

前置きが長くなりました。本題ですが、考古学からの検証としては、まず、鶴岡八幡宮の出土駒を挙げねばなりません。この出土駒については、ほぼ3年前の投稿になりますが、投稿56と投稿61(摩訶大将棋のブログ_02)にて話題にしています。当時の投稿は、ある点は正しくある点は間違っています。本ブログは、研究室で摩訶大将棋をテーマにした最初のときから書いていますので、後から読み返せば、はじめの頃は単純な間違いも多いのですが、古文書の解読で1点づつ掘り起こすたびに、正しい方向へと軌道修正されています。大筋はあまり変わっていません。

 

※1)薬師如来の駒、十二神将の駒、供養の駒、呪術関連の駒の存在からです。

※2)天変地異の鎮圧を祈願する将棋ということになります。

※3)阿弥陀信仰が広まる9世紀後半までに成立した可能性大です。

 

すいません。少し長くなりすぎましたので、また明日、続きを書きます。

 

(2017.05.20 23:30) 

2017年

4月

20日

214)洪水の発生と古代の将棋

日本将棋の起源には諸説があり、まだ結論には到っていません。もちろん、本ブログの説も諸説の中のひとつであるわけですが、個人的には、この説の方向で大きな間違いはないだろうと考えています。

 

つまり、二中歴の平安将棋以前に、すでに大型将棋(摩訶大将棋、または摩訶大将棋に類似の将棋)が存在していたという考え方です。この考え方の根本には、

 1)玉将は薬師如来

 2)大型将棋の対局は遊戯神通

という2点が大きな位置を占めています。古代の将棋が薬師信仰に基づく呪術であると同時に遊戯でもあったということ。本ブログの説の可否は、これを受け入れるかどうかだけです。

 

投稿212)にて、将棋の起源に関するキラークエッションのいくつかを挙げましたが、関連していくつかの問い合わせをいただきました。去年の秋の東京ゲームショウでの問い合わせにも返事を出せていない状況ですので、きちんと返信はできていないのですが、いただきましたご意見は議論の開始点が大きく違っているように思います、というのが感想です。

 

大型将棋を考慮しない議論の中で、はたして日本将棋の起源考・伝来考があり得るのだろうかという点が、まずあります。また、古代の将棋を遊戯としてだけ捉えて、遊戯の観点だけから古代将棋史の議論を進めていくのも問題だろうと考えます。

 

さて、明月記の将棋の記述箇所(正治元年五月)で、同じ月に京都で洪水が起こっていたこと、この件については、投稿208)や投稿210)に書きました。本稿にて、もう1点指摘しておきたく思います。実は、台記に記述されている大将棋が対局された月(康治元年九月)にも、やはり京都で大きな洪水が起こっています。この2つの将棋の対局は、後鳥羽上皇、崇徳上皇の薬師悔過であったと考えます。洪水鎮圧という薬師如来の将棋が持つ威力に頼ったことの現れでしょう。洪水と薬師悔過については、投稿210)の文献を参照下さい。

 

(2017.04.20 23:50)

2017年

4月

15日

213)摩訶大将棋の論文

あとしばらくで別刷が届きます。次の展示から配布予定です。最後のまとめの節(第9節)だけ以下に紹介します。タイトルは摩訶大将棋の復刻、18ページの論文です。

 

-----------

9.まとめ

 摩訶大将棋は,平安時代に創案された日本独自の大型将棋である.摩訶大将棋を現代にまで伝えたのは,1592年に写本された象戯圖であり,象戯圖がなければ,摩訶大将棋の復刻は不可能だったと言える.しかし,象戯圖には,摩訶大将棋のルールが明確に書かれているわけではない.本稿で詳述したとおり,象戯圖に書かれている情報は少なくかつ断片的である.ただ,幸運なことに,情報は少ないものの復刻するにはぎりぎり足りていて,まるでパズルを解くように摩訶大将棋の復刻ができた次第である.

 

 本論文では,象戯圖の記述に基づき,遊戯としての摩訶大将棋の復刻を試みた.復刻により掘り起こされたルールは,その都度,試験対局に附し,その妥当性を確認した上で採否を決定している.成りのタイミング等,部分的にはまだ明確でないところもあって,復刻は今も続けられているが,現段階の復刻でも十分に摩訶大将棋は再現できているものと思われる.それは,摩訶大将棋の対局が非常に面白いということからも言えるのである.面白くなければ,長い年月を古文書に残されて綿々と伝わることもなかっただろう.

 

 対局時間の長さが問題視されることも多いが,最近よく使われる持ち時間設定(持ち時間:20分,秒読み:30秒3回)では,1時間以内で勝負が決まる.一般に想像されているよりも実際の対局時間はずっと短い.この点は強調しておきたい.摩訶大将棋には,現代将棋では考えられないような強い駒,鉤行や摩羯,師子や狛犬,法性や教王があるため,攻めも早く豪快である.盤面が大きいために,致命的な悪手を気づかず指して早々に負けてしまうことも少なくない.対局時間の予想外の短さはこうした要因による.

 

 最後に,本稿ではほとんど取り上げなかったが,遊戯ではない摩訶大将棋のことも書いておかねばならない.古代日本では,たいていの遊戯は,遊戯であるとともに神事でもあった.したがって,摩訶大将棋の復刻は,遊戯の部分だけでなく,遊戯ではない部分の復刻が必然的に付いてくる.そして,摩訶大将棋の場合,この遊戯ではない部分もまた非常に興味深い内容を持っている.これについては,次の論文に譲りたい.

-----------

 

(2017.04.15 16:30)

2017年

3月

30日

212)将棋の起源に関するキラークエッション

キラーアプリケーションという言葉があります。決め手となる重要なアプリケーションのことですが、同じような意味合いでキラークエッション(決め手となる重要な質問)と呼んでみました。

 

将棋の起源を論じる際、キラークエッションに対してどのような答えを返すことができるかで、それぞれの仮説の正否や論理性がある程度は判断できるだろうと思います。以下に、平安将棋を題材としたキラークエッションを並べてみました。自説をお持ちの皆様、いかがでしょうか。

 

1:世界の将棋類を見れば、玉将に相当する駒は、たいていの場合、king(王)である。平安将棋では、玉将という名称が採用されている。どう説明するか。

 

2:金将、銀将、桂馬、香車の名前の由来は何か。

 

3:歩兵はなぜ3列目に並ぶのか。世界の将棋類では、歩兵相当の駒は2列目に並ぶことが多い。

 

4:酔象の駒が、11世紀に出土している。一方、二中歴(12〜13世紀)に記載される将棋には、酔象の駒は登場しない。この点をどう説明するか。

 

5:世界の将棋類では、駒の動きは、前後にも左右にも対称の動きをする。ところが、平安将棋の金、銀、桂、香は前後非対称の動きである。たとえば、ななめの4方向だけに動く駒が、平安将棋にはない。創案当初の将棋にこのような基本的な動きの駒がない理由をどう説明するか。

 

6:世界の将棋類との比較では、平安将棋の成りは特異である。歩兵、香車、桂馬、銀将は、敵陣に入った時点で、金に成る。このルールが成立した経緯をどう説明するか。

 

ところで、本ブログでは、将棋の起源は摩訶大将棋であるとの立場です。仏様神様が将棋を遊戯神通するわけですが、その道具立てが摩訶大将棋の盤と駒ということになります。このとき、玉将の駒は薬師如来に相当し、将棋を遊ぶことは、たとえば、天変地異鎮圧の呪力を引き出すための祈願に相当しています(と考えています)。遊戯神通については投稿207)を、薬師如来と摩訶大将棋の関連については、最近の投稿からでは投稿201)〜206)を参照下さい。

 

玉将=薬師如来説をとる場合、上記6つのキラークエッションは、同じわく組みの中で答えを提示することができます。中心となる仮説は、平安将棋が始めにあるのではなく、摩訶大将棋から平安将棋ができたというシナリオです。このシナリオに基づくことで、キラークエッションの答えが自然と浮かび上がってきます。

 

通説のとおり平安将棋が始めだと見た場合には、それが伝来したものであっても日本創案のものであっても、6つのキラークエッションに統一的に答えるのはむずかしいのではないでしょうか。

 

(2017.03.30 14:10)

 

2017年

3月

19日

211)将棋史の2択:摩訶大将棋と平安将棋、どちらが先か

中世以前に限れば、古文書(二中歴と象戯圖)で存在が確かな古典将棋は次の7種です。 

 平安将棋(縦横9マス) <-- 異論もあり得ますが、いちおう9マスとしておきます。

 中将棋(縦横12マス)

 平安大将棋(縦横13マス)

 大将棋(縦横15マス)

 大大将棋(縦横17マス)

 摩訶大将棋(縦横19マス)

 延年大将棋(縦横25マス

 

ところで、上記7種の将棋の成立順について、本ブログでは、いちおう以下のように考えています。ただ、去年の夏ごろまでは、平安将棋と平安大将棋は除外し、発表や展示をしていました。いろいろと論拠が固まってきましたので、去年の秋以降は、平安将棋まで含めて発表し始めています。

 

ほとんど異論が出ないのは、次の2つの流れです。ですので、本稿では話題にしません。

○ 摩訶大将棋 --> 大大将棋 --> 延年大将棋        ○ 大将棋 --> 中将棋

 

検討されるべきは、次の2つの説です。

A説(本ブログの説)  :摩訶大将棋 --> 大将棋 --> 平安大将棋 --> 平安将棋

B説(一般的な説・通説):平安将棋 --> 平安大将棋 --> 大将棋 --> 摩訶大将棋 

 

A説の可否は、一言で言えば、摩訶大将棋の玉将を薬師如来と見るのかどうかということだけです。玉将=薬師如来を納得していただいている場合、関連する問題点もほぼすべて納得ということかと思います。つまり、守護する十二神将の駒、供養としての伎楽面の駒(踊り駒)、供養としての桂と香、大地を鎮める地理の駒の存在、歩き駒の動きのパターン、狛犬師子のこと、仲人が横に歩くこと、麒麟鳳凰が踊ること、法性がなくならないこと等々、いろいろなことが、互いに関連しあって矛盾することがありません。

 

一方で、B説の論拠ですが、実は、論文、単行本含め、どこにもきちんとした説明がなされていないのではないでしょうか。将棋は小さいものから大きいものに発展していくものだという暗黙の了解だけが理由のように思います。平安将棋が、文献学的にも考古学的にも最古だということがありますが、しかし、これは将棋の成立順までを規定するものではありません。

 

摩訶大将棋は文献的には最古でなく、確実な出土駒もありません。しかし、摩訶大将棋が、平安将棋(文献学・考古学的には11世紀前半)よりも古い将棋らしいことは、摩訶大将棋そのものの中に現れています。下の「続きを読む」のリンクを参照下さい。

 

(2017.03.19 23:55)

 

摩訶大将棋を薬師信仰に則った呪術としての将棋と見る場合、10世紀前半ぐらいまでの将棋という可能性が濃厚です。さらに遅いとなれば、阿弥陀信仰が全盛の時代となってしまうからです。この時代推定は、狛犬と師子の縦並び(つまり、狛犬舞と師子舞だった時代)、伎楽面の駒が取り入れられていることとも合致しています。

 

成立順の件ですが、大きい将棋から小さい将棋へと変化したのか(つまり、駒が削減される)、小さい将棋から大きい将棋へと変化したのか(つまり、駒が追加されている)は、摩訶大将棋の駒がかなり系統だった構成となっているため、駒が徐々に追加された結果、出来上がったとは考えにくいでしょう。逆に、B説に立つ場合、駒の追加がかなり不合理なものとなります。

 

なお、成立順の考察は、将棋伝来の問題にとっても重要です。一番古い将棋が伝来当初の将棋ということになるわけですから、伝来したのが摩訶大将棋か平安将棋かで、かなり様相が変わるのではないでしょうか。

 

本稿、いったんここで終えます。また後日、補足的に投稿します。

(以上、2017.03.20 00:40)

 

(以下、2017.03.22 11:30 補足)

摩訶大将棋そのものが伝来したというのは考えにくいです。伝来元の候補としては、まず中国ですが、狛犬--師子、薬師如来--十二神将、伎楽面といった文物の事例は中国ではあまり見られません。そもそも玉将=天皇という対応づけ自体が日本でしか成立しないものですし、駒の構成、踊り駒、成りのルール等も日本独自だろうと思われます。では、何が伝来したのかと言われますと、ここでは短く表現できませんが、何かが伝来しているというのが、今の見解です。わかりにくくてすいません。このあたりは、後日の投稿となります。不思議なことですが、伝来してきたと思わざるを得ない文献の記述があります。 

2017年

3月

18日

210)薬師如来の呪力の一例:洪水を封じる

本稿、直接には、摩訶大将棋には関連しません。しかし、投稿208)の短文だけで、薬師如来が大地震を封じる呪力を持つということを信じてもらえるのかどうか。この点たいへん気がかりです。薬師如来がそういう強大な呪力を持つからこそ、将棋全体が薬師信仰である摩訶大将棋も、遊戯神通という修法をもって、大地震を鎮めることができることになります。遊戯神通については、投稿207)を参照下さい。

 

前提として、まず、薬師如来には天変地異を鎮めるほどの呪力があるのだということを信じてもらわないといけません。薬師如来のもつ呪力を信じてもらった上で、はじめて、投稿208)の内容も納得してもらえるでしょう。

 

本稿、薬師如来の呪力の一例として、洪水を封じる力について書きます。古代日本では、薬師如来は本当にそういう大きな呪力を持っていました。

 

たとえば、次の文献を参照下さい。本稿で取り上げたい件がたくさん書かれています。

-------

中野玄三、木津川流域の薬師悔過とその仏像、國華 第1348号、5-21、2008.

-------

この文献で取り上げられている中で、1件だけ、阿弥陀寺の薬師如来を例として取り上げます。阿弥陀寺は京都府城陽市にあります。阿弥陀寺の紹介ですが、たとえば、次のWebサイトを参照下さい。

kanagawabunkaken.blog.fc2.com/blog-entry-66.html

 

阿弥陀寺の位置(木津川のそばです)や周辺の様子も重要ですので、下に地図を置きました。上の文献にも詳しく書かれていますが、木津川の洪水要注意点にあります。ちょうど、木津川が流れを南北から東西方向に変える場所です。

 

(2017.03.18 23:55) 

 

地図上の赤い印が阿弥陀寺の場所(地図データ: Google Map)。
地図上の赤い印が阿弥陀寺の場所(地図データ: Google Map)。

 

 

阿弥陀寺の薬師如来は、かつては、阿弥陀寺の東隣の天満宮社にありました。薬師如来は南向きに、木津川を睨むように置かれていたということです。つまり、木津川の洪水鎮圧を薬師如来の呪力に頼っていたわけです。古代の交通の要所だった木津川の流域には、この他にも、多くの薬師如来のお寺があります(上記文献参照のほど)。

 

ところで、薬師如来の姿も重要です。迫力のある、大きい写真を見る場合は、次の文献を参照下さい。 平等院と南山城の古寺(日本古寺美術全集15)、集英社、1980.

 

投稿208)にて、明月記に書かれている洪水と大将棋の対局のことを取り上げましたが、これは、本稿で取り上げたように薬師信仰から来ているものと考えることができます。天変地異を鎮めるという祈願が薬師信仰に基づくものであるとすれば、それを執り持つのが薬師如来像であり、摩訶大将棋であるということになります。薬師如来像の場合は、リアルな実体としての仏像ですが、摩訶大将棋の場合は遊戯という抽象的なものが呪術の仲介をしています。このとき、薬師如来像が素晴らしい立派な彫刻として作られていなければならないのと同様、摩訶大将棋も遊戯として十分面白くなければなりません。そして、それはその通りなのです。

 

地図上の赤い印が阿弥陀寺の場所(地図データ: Google Map)。
地図上の赤い印が阿弥陀寺の場所(地図データ: Google Map)。

 

 

阿弥陀寺の薬師如来は、かつては、阿弥陀寺の東隣の天満宮社にありました。薬師如来は南向きに、木津川を睨むように置かれていたということです。つまり、木津川の洪水鎮圧を薬師如来の呪力に頼っていたわけです。古代の交通の要所だった木津川の流域には、この他にも、多くの薬師如来のお寺があります(上記文献参照のほど)。

 

ところで、薬師如来の姿も重要です。迫力のある、大きい写真を見る場合は、次の文献を参照下さい。 平等院と南山城の古寺(日本古寺美術全集15)、集英社、1980.

 

投稿208)にて、明月記に書かれている洪水と大将棋の対局のことを取り上げましたが、これは、本稿で取り上げたように薬師信仰から来ているものと考えることができます。天変地異を鎮めるという祈願が薬師信仰に基づくものであるとすれば、それを執り持つのが薬師如来像であり、摩訶大将棋であるということになります。薬師如来像の場合は、リアルな実体としての仏像ですが、摩訶大将棋の場合は遊戯という抽象的なものが呪術の仲介をしています。このとき、薬師如来像が素晴らしい立派な彫刻として作られていなければならないのと同様、摩訶大将棋も遊戯として十分面白くなければなりません。そして、それはその通りなのです。

 

2017年

3月

16日

209)将棋の金将と銀将:ルーツは摩訶大将棋の地理の駒か

前稿208)の続きとなります。

地理の駒という言葉を使いましたが、これは、象戯圖の序文の次の記述からです。

 

下象其形於地理列以金銀鉄石之名

(下は其の形を地理にかたどって、列するに金銀鉄石の名を以ってす)

 

地理の駒というよりも、地面の駒という方がわかりやすいかも知れませんが、象戯圖の序文では、天文の駒(十二支の駒)と地理の駒(金銀銅鉄・・の駒)が対になっていますので、地理の駒としておきます。

 

いずれにせよ、この地面の駒が、地面の揺れを鎮める呪力を持つものとして、摩訶大将棋に並んだのではないでしょうか。ところで、将棋の成立順を考える際、摩訶大将棋-->大将棋では、始めは揃っていた十二支の駒が、駒が取り除かれた結果として大将棋(十二支の一部だけがある)ができたと考えたわけです。この件、本ブログではいろいろなところで書いていますが、たとえば、投稿177)、投稿152)あたりをご参照下さい。

 

本稿でも同様の考え方を適用することができます。金銀銅鉄・・の駒がきちんと並んだ将棋から、地理の駒が順次落とされていき、最終的に金と銀だけが残ったと見ました。この逆を考えるのはかなり不自然な感じとなります。つまり、はじめに、財宝としての金と銀の駒があった。そのあと、地理の駒が順次追加され、金銀銅鉄石土と揃う。十二支の駒のときもそうですが、意図された駒のグループは始めからそのグループとして存在していたのであって、いろいろと追加された結果、揃うというものではないでしょう。

 

さて、この帰結は、地理の駒という観点からではなく、実は、別の考え方からも辿りつくことができます。手がかりは、駒の動きです。この件については「続きを読む」をクリックして下さい。

 

(2017.03.16 23:20)

 

以下、補足となります。

--------

駒の動きを見る限り、平安将棋(=現代将棋から飛車と角行を抜いた将棋)は伝来当初の将棋ではない可能性の方が高いでしょう。それは、金将、銀将、桂馬、香車の動きが、基本的な動きではないことから推測できるものです。

 

シャトランジ(ペルシア)、チェス(ヨーロッパ)、シャンチー(中国)等、世界の将棋類のほとんどで、駒の動きは、左右対称かつ前後にも対称となっています(歩兵相当の駒(たとえば、pawn)を除いてです)。これは、大型シャトランジや大型チェスにおいてもそうです。ところが、将棋の金・銀・桂・香は、前後対称の動きとはなっていません。これは、将棋が伝来したものだとしても、日本で新しく作られたものだとしても奇妙です。特に問題な点は、ななめだけに動く駒(猫又の動きに相当)や、前後左右にだけ動く駒(仲人の動きに相当)がないという点です。将棋という新しいボードゲームを作ろうとしたとき、このような基本的な動きを採用しないのは不自然ではないでしょうか。

 

とは言え、金将、銀将の駒は平安大将棋にあるわけです。これをどのように考えればよいかですが、もともとの将棋にはもっと多数の駒があり(もちろん、基本的な動きの駒は含まれています)、金将、銀将はその多数の駒の一部だったと考えるのです。将棋の進化につれ、駒が少なくなって、平安将棋ができたというシナリオです。

 

2017年

3月

15日

208)大地震と摩訶大将棋:金銀銅鉄石土の駒ができた理由

タイトルに大地震と入れましたが、これは、正確には、天変地異のことです。ですので、大地震の他、大雨やその結果としての洪水等の大きな自然災害を含みます。

 

ところで、非常に極端な書き方をすれば、摩訶大将棋は、大地震を鎮めるための将棋です。金銀銅鉄石土の将の駒、つまり、地理の駒は、地面を鎮めるためだったと考えることができます。

 

将棋が神事であり修法であることは、前稿207)で少し書いたとおりで、供養具や法具を並べてお経をあげるのと、将棋で遊戯するのは、同じです。将棋の駒を供養具、法具と見立てて下さい。

 

薬師如来は、病気を治すということで知られているわけですが、それと並んで、天変地異を鎮める、国全体を護るというような国家鎮護の仏様でもあります。個人が祈願するのは病気のことですが、天変地異を鎮めるというような大きなことは天皇が祈願しています。天皇が行う薬師悔過については、現時点ではまだきちんとは書けませんので、後日ということにさせて下さい。

 

さて、本稿の仮説についてですが、金銀銅鉄・・という地理の駒が並ぶから大地震と関係があるのだろう、という単純な連想をしているわけではありません。

 

根底には、摩訶大将棋と薬師如来、薬師信仰が密接に関係しているという事実があります。本ブログでは、2年ほど前から、摩訶大将棋と薬師如来の結びつきについて断片的に投稿していますが、そろそろ固まってきていますので、きちんとまとめる段階に入りつつあります。先週の学会発表では、「摩訶大将棋と薬師如来:序報」というタイトルでの発表になっています。

 

摩訶大将棋 --> 薬師如来 --> 天変地異を鎮める --> 金銀銅鉄石土の駒が並ぶ

という展開です。ところで、関連するひとつの傍証があります。明月記の正治元年五月十日の条です。

 

自夜暁更甚雨如注、終日不休、河水大溢、依番為上格子参上、

殿下出御、於御前指将碁、国行被召合、三盤了、殿下御堂了退下

 

洪水が起こり、その報告に行きました。そして、将棋を・・・という文章です。この記述は、投稿195)でも話題にしており、「三盤了」の解釈についてはそこで書いています。この文章は、大将棋に関する記載例としてよく引用されるのですが、その際、将棋を指した云々の前の記述、つまり、洪水が起こったという件は、これまで問題にされたことがありません。しかし、ここで、洪水と将棋をセットにして捉えるのはどうなんでしょうか。洪水が起こったから、後鳥羽上皇は将棋(摩訶大将棋まはた大将棋)を指すように命じたとみるわけです。洪水を鎮めるための修法のようなものです。

 

地理の駒は最下段に並んでいますが、天変地異の「天」と結びつく駒は十二支の駒で、盤の上の位置に並んでいます。

 

本稿の考え方、いかがでしょうか。そういうこともあり得ると思われた方は、さらに、あと1点、関連する説明ができますので、下のリンクから続きを読んで下さい。

 

(2017.03.15 23:45)

 

以下、補足となります。

--------

天変地異と薬師如来が強く関連していることは、この次の投稿で書きますが、ここでは、大地震と摩訶大将棋の関連性、あり得るかも知れない関連性を書いてみます。

 

それは、秀次が、なぜ水無瀬兼成に大型将棋を依頼したのかということへの疑問から来ています。はじめの駒は1591年に出来上がっていますので、依頼は1590年前後だったでしょう。おそらく、水無瀬兼成はその依頼を受けて、大型将棋、特に、摩訶大将棋の文献を探し求めたのではないでしょうか。

 

時代は中将棋の全盛期も過ぎ、持ち駒ルールの小将棋が盛んになり出した頃です。そんな時代に、なぜ大型将棋の駒を発注したのかということです。博物学的な興味を楽しむような時代ではありません。それに、大型将棋の駒を求めたのは秀次だけでした。秀次以外の誰からも、大型将棋の駒は発注されていません。

 

ところで、秀次が駒を依頼する数年前、1586年に天正大地震がありました。10日以上も余震が続いたほどの大地震で、近畿地方は大きな被害を受けます。そこで、秀吉は、京都に大仏を建てることを決めたわけです。国家鎮護の意識があったのでしょう。一方で、秀次も、大地震を鎮めようとしたのではないでしょうか。摩訶大将棋の駒はそのための駒だったのではないかと。いかがでしょう、こういう想像は。

 

なお、秀次が呪術的なことを好んだかどうか。これはまだ調べていません。文化的な素養が豊かだったと言われる秀次ですので、天変地異を鎮める呪術としての摩訶大将棋のことを知っていた可能性がなくはないと考えます。

(以上、2017.03.15 23:45)

 

(以下、2017.03.19 00:55 追記)

洪水鎮圧と摩訶大将棋の関連については、投稿210)も参照下さい。 

 

 

2017年

3月

08日

207)遊戯神通如来:如来が摩訶大将棋を遊ぶ

本稿のタイトルを、遊戯神通如来としましたが、

法海勝慧遊戯神通如来(ほうかいしょうえ ゆげじんづうにょらい)

がきちんとした名称です。遊戯神通(ゆげじんづう)を強調するために、少し短く、遊戯神通如来と書きました。薬師瑠璃光如来を薬師如来と呼ぶのに倣ったわけですが、このようにしてよいものかどうかはわかりません。

 

突然ですが、次の投稿を一読していただけるでしょうか。2014年8月の投稿です。その投稿から、今日がちょうど100回目の投稿となります。

 

摩訶大将棋のブログ_02

107)摩訶大将棋を遊ぶということ:白川静「文字逍遥」

 

当時からすでに摩訶大将棋の対局が神事だということは確信していましたが、では、なぜ遊戯が神事たり得るのかが、実感としてはあまりよくわかっていませんでした。そんなとき、白川静の遊字論を読み、そこに探していた答えのようなもの、答えかも知れないものが書いてあったわけです。投稿107)を参照下さい。

 

さて、摩訶大将棋と薬師如来の話ですが、薬師如来が登場する以上、摩訶大将棋は薬師信仰に基づいたものであるはずです。ところで、七仏薬師注1の存在をご存知でしょうか。薬師如来を主体として如来7体を並べて祈るのですが、その如来の最後7番目が薬師瑠璃光如来、そして、6番目が、本稿のタイトル、遊戯神通如来です。

 

織田仏教大辞典で「遊戯神通」を引くと次のようにあります。

「仏菩薩神通に遊んで人を化して以て自ら娯楽するを遊戯と云う」

つまり、将棋を指すのは対局する人なのですが、実際は、薬師如来が将棋を遊んでいます。摩訶大将棋を奉納するということはこういうことなのではないでしょうか。

 

遊字論と全く同じです。「遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。・・・・

それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。神とともにというよりも、神によりてというべきかも知れない。・・・」

 

神仏習合、神は薬師如来でもあります。私の思い描く神事としての摩訶大将棋、修法としての摩訶大将棋は、自分の言葉ではまだ表現できていませんが、織田仏教大辞典と遊字論の文章を借りるなら上述のようになります。

 

もちろん、一方で、摩訶大将棋は非常に面白い将棋です。というよりも、摩訶大将棋は面白くなければならないと言った方が正しいでしょう。なにしろ神様が遊ぶ将棋なのですから、面白くない将棋では神前に奉納することができません。面白いからこそ遊戯神通できる将棋となり得ます。

 

薬師信仰のツールとして将棋という遊戯が用いられたのは、七仏薬師の遊戯神通如来から来ているのかも知れません。薬師経や薬師信仰については勉強中です。この件また後日に取り上げます。

 

なお、七仏薬師の2番目の如来は、自在王如来(注2)です。玉将の成り、自在王はこの如来を表現したものだと思われます。

 

注1:七仏が薬師如来の分身かどうかは見解が分かれているそうです。

注2:正しくは、宝月智厳光音自在王如来(ほうげつちごんこうおん じざいおうにょらい)です。

(2017.03.08 22:00)

2017年

3月

07日

206)将棋史に関する疑問:平安将棋の謎

以下に質問だけ置きます。原初の将棋だと考えられている平安将棋(二中歴に記載されている将棋)に関する質問です。どの質問にも、これまできちんとした答えは出ていません。

 

ところで、前稿で紹介したシナリオに沿えばある程度の説明ができます。その際、ひとつだけのシナリオで全部を説明可能という点が重要です。1)についてはこうこう、2)についてはこうこう、3)については・・・、というような個別の答えはこれまでにもありましたが、全部をまとめて説明できるシナリオがあるとすれば、そのシナリオの方が正しいのではないかと現状考えています。

 

1)なぜ歩が3列目に並んでいるのか(シャトランジもチェスも2列目に並ぶ)。

 

2)平安将棋が将棋の起源だとすれば、なぜ基本的な動き(前後左右に動く・ななめだけに動く)の駒がないのか。金将や銀将は前後非対称の動き。桂馬や香車の動きも同じく前後非対称。一方、シャトランジやチェスではすべての駒が前後対称かつ左右対称に動く。

 

3)玉金銀桂香の駒名の由来は何か。従来の説では根拠が希薄であるし、また、その説では、上の1・2の質問の答えとも全くリンクしない。

 

4)二中歴に書かれている「玉将だけにすれば勝ち」というルールはどこから来たのか。世界の将棋類は、通常、玉将相当の駒を取れば勝つというルール。

 

( 2017.03.07 15:30 )

2017年

3月

06日

205)はじめに摩訶大将棋があったという可能性

本稿のタイトルとは違いますが、先週末、東京にて、同じ主旨の発表をしてきました。予稿を全部ここに置くことはできませんので、とりあえず、冒頭の要約の文章のみ、紹介します。ゲーム学会の研究会「ゲームと数理」での30 分の発表です(少し時間オーバーだったかも知れません)。

 

------------------------------------

摩訶大将棋と薬師如来:序報

高見友幸

------------------------------------

要約: 

 平安時代から室町時代にかけては,小将棋(駒数36枚〜42枚)の他,さらに駒数の多い大型将棋(68枚〜354枚)が存在していた.我々の研究グループでは,大型将棋のひとつである摩訶大将棋復刻の試みを続けてきたが,その研究からは摩訶大将棋は大型将棋の起源だった可能性が高いという結論が得られている.さらには,摩訶大将棋が小将棋の起源だった可能性もある.これらを検討するためのいくつかの知見を提供した上で,新たな将棋史について議論するのが本発表の目的である.

 摩訶大将棋が将棋史の始めに成立したとする根拠は,摩訶大将棋の駒種とルールに見られるあまりにも整然とした構成にある.玉将が薬師如来に相当する駒だと想定すれば,それと連動して,薬師如来の脇侍である日光菩薩と月光菩薩,守護神である十二神将,供養として並ぶお香,伎楽,瓔珞に相当する駒を見つけることができる.一方で,玉将は天皇(=薬師如来)であり,チェスの駒で言えばキングに相当する.すぐ前に王子の駒があり,その前に道祓いの狛犬舞,師子舞の駒が配置される.摩訶大将棋の対局は薬師悔過の実践であり,対局は天皇自らが取り仕切る.それ故,対局は国の危機に対するものであり,たとえば,薬師如来による天変地異の鎮静を祈願したのである.摩訶大将棋に天の駒(十二支の駒)と地の駒(金銀銅鉄石瓦土の駒)が並ぶのはそのためだと考える.

 

2017年

2月

07日

204)将棋の桂馬と香車:薬師如来への供養

「平安将棋が一番古い将棋なのかどうか:その4」となります。本稿、桂馬と香車の意味について議論しますが、これが、古代の将棋の成立順と関係しています。

 

桂馬と香車は、どういう意図から、将棋の駒になったのでしょうか。桂馬の桂は肉桂(ニッキ)のことで、香車の香(お香)と結びつくのだとして、当時、香料は金銀と同様、貴重品だったからというのが一般的な説明です。しかし、この問いの答えは、平安将棋(最下段は現代の将棋と同じ)だけを見ている限り見つけることはできません。

 

桂馬と香車の2駒が導入されたのは、平安将棋が作られたときではなく、実は、摩訶大将棋が作られたときだったようです。そう考えれば、桂馬と香車の意味を説明することができます。つまり、摩訶大将棋がはじめに作られ、後になってできた平安将棋に、その桂馬と香車が受け継がれているという考え方からの帰結です(本ブログでは、摩訶大将棋から大将棋、平安大将棋を経て平安将棋が作られていると考えています)。

 

以下に、摩訶大将棋の初期配置を示しました。摩訶大将棋の玉将は「薬師如来の駒」でもあります。摩訶大将棋のブログを、今ここではじめて読まれている方がいれば、これを聞いてどう思われていることか。ただし、薬師如来の根拠は、以下のとおり、結構いくつもあって、さほど荒唐無稽な話しでもありません。

 

摩訶大将棋の初期配置。桃色は十二支(十二神将)の駒を示す。
摩訶大将棋の初期配置。桃色は十二支(十二神将)の駒を示す。

 

玉将が薬師如来の駒である根拠を、以下に概略しました(詳細はまた後日に)。

1:玉将の上に、狛犬と師子が縦に並んでいるが、狛犬像と師子像ならば左右に並ぶべきである。したがって、この狛犬と師子は、狛犬舞、師子舞とみるべきである。つまり、中央の列は、玉将を天皇に見立てた行列であり、行列の先頭には、道祓いとして狛犬舞と師子舞が舞っている。当時、天皇は薬師如来とされていた。薬師如来は、東方の瑠璃光浄土の教主であり、天皇も、日出る処の(東方の)天子であることによる。

 

2:玉将の玉は、薬師瑠璃光如来(=薬師如来)の瑠璃(=玉)に由来する。

 

3:玉将(薬師如来)のまわりには、十二支(十二神将)の駒がある。薬師如来を十二神将が守護している形。

 

4:玉将の左右に提婆(デーヴァ[deva]=輝くものの意)と無明(月に相当)。つまり、薬師如来の脇侍として日光菩薩と月光菩薩。

 

5:摩訶大将棋には、薬師如来への供養となる駒がいくつも並んでいる。

 

さて、上の5についてですが、薬師経には、薬師如来への供養として、次の供養が挙げられています。

-----

華香・塗香・抹香・焼香・花鬘(けまん)・瓔珞(ようらく)・旙蓋(ばんがい)・伎楽

-----

ここで、瓔珞は珠玉、貴金属を編み合わせた装身具のことです。旙蓋は、旗を意味します。

上図では、青色が供養の駒に相当しています。具体的には、次のとおりです。

香: 桂馬・香車

瓔珞:金将・銀将

旙蓋:仲人(詳細は近日中に)

伎楽:羅刹・力士・狛犬・金剛・夜叉・麒麟・師子・鳳凰(伎楽面の名称を持つ踊り駒です)

 

このように、多くの供養の駒が摩訶大将棋には並んでいます。桂馬と香車は薬師如来への供養ということでいいのではないでしょうか。

(2017/02/08 03:25)

 

2017年

2月

06日

203)平安大将棋の盲虎:阿弥陀如来の駒

摩訶大将棋の駒と十二神将の本地仏の対応
摩訶大将棋の駒と十二神将の本地仏の対応

本稿は、前稿の「摩訶大将棋にある4つの如来の駒」の続きとなります。また、「平安将棋が一番古い将棋なのかどうか:その3」でもあります。

 

前稿の最後の方で、摩訶大将棋の十二神将の駒の本地仏として4つの如来の駒を紹介しましたが、右の表に十二神将の駒と本地仏の対応を示しました。丑・卯・午・未の駒の欄を空けていますが、これは、十二支の駒をどのように見るかで異なるからです。投稿201)のA)とC)で示したとおり、十二支の駒のグループとして、次の2つの候補を挙げることができるでしょう。青文字の駒は、摩訶大将棋から大将棋が作られたとき、落とされずに残った駒です。

 

 

A)老鼠・猛牛盲虎・驢馬・臥龍・蟠蛇・桂馬・(未)・古猿・淮鶏・悪狼嗔猪

C)老鼠・盲虎・驢馬・臥龍・蟠蛇・古猿・淮鶏・悪狼嗔猪猛豹酔象猫又

 

A、Cいずれのグループにせよ、3つの如来の駒、阿弥陀如来(盲虎)、大日如来(悪狼)、釈迦如来(嗔猪)は大将棋に全部残っています。ここで、さらに、大将棋から平安大将棋が作られた、また、大将棋から中将棋も作られたものとして考えを進めてみましょう。このとき、摩訶大将棋にあった十二支の駒はさらに落とされ少なくなります。十二支の駒のうち、平安大将棋、中将棋まで残るのは次の駒です。

 

A)の場合 平安大将棋まで残る駒:盲虎・桂馬  中将棋まで残る駒:盲虎

C)の場合 平安大将棋まで残る駒:盲虎     中将棋まで残る駒:盲虎・猛豹・酔象

 

このように、摩訶大将棋の盲虎、つまり、阿弥陀如来の駒は最後まで残ることになります。阿弥陀如来の駒が将棋が変わっても残り続けることは、しかし、とても納得がいくことではあります。

 

摩訶大将棋は薬師如来の将棋とも言えますが(この件、近々に詳細投稿します)、薬師如来の信仰は、平安時代の中頃から、阿弥陀如来の信仰へと変わっていきます。摩訶大将棋の十二神将がどんどんとなくなる一方で、阿弥陀如来が残るのはこのような現れとみることもできるのです。

 

平安大将棋の盲虎をこうした視点から見直してみるのはいかがでしょう。ところで、本稿とは逆に、平安大将棋が大型将棋の出発点だったとすれば(通説はこの考え方です)、平安将棋をもとに平安大将棋が作られたとき、盲虎の追加をどのように説明できるのでしょう。なお、本稿では、平安大将棋の猛虎を盲虎としています。

 

同じようなことは、桂馬や香車についても言えます。平安将棋が将棋の起源だったとすれば、桂馬や香車はどのような意味をもつのでしょうか。玉将、金将、銀将についてもそうですが、桂馬と香車がなぜ将棋の駒にあるのかという納得のいく説明は、これまで、なされたことがありません。

 

ところが、摩訶大将棋から、将棋が次第に小さくなっていったとすれば、桂馬と香車の意味は明解です。次稿は、この件について書きます。

( 2017.02.06 22:50 )

 

2017年

2月

05日

202)摩訶大将棋にある4つの如来の駒

投稿200)からの続きです。「平安将棋が一番古い将棋なのかどうか:その2」となります。まず、以下のA)大将棋、B)中将棋、C)平安大将棋、D)平安将棋の初期配置の図をじっくり眺めていただくのがいいかも知れません。摩訶大将棋の初期配置については、投稿201)の図を参照下さい。

 

本ブログでは、各将棋の成立順について、

-------

摩訶大将棋 --> A)大将棋 --> B)中将棋

-------

という説を取っています。学会発表だけでなく、摩訶大将棋展等の活動で広くこの考え方を紹介していますが、このあたりまでは反論はほぼありません。今回、一連の投稿で提出する説は、この説をさらに発展した次の説です。これも、最近のミーティング、展示会、研究会で、部分的に紹介しつつあります。

-------

摩訶大将棋 --> A)大将棋 --> C)平安大将棋 --> D)平安将棋

-------

A)--> B)と、A)--> C)は、中将棋が原中将棋(成りのみ別ルール)だとすれば、同時代に進行した可能性もあり得ますが、中将棋への流れについては、また後日の投稿とし、しばらくは、メインテーマである平安将棋への発展に絞りたく思います。

 

ところで、一般的な説は、本ブログの説とはほぼ正反対であり、

D)平安将棋 --> C)平安大将棋 --> A)大将棋 --> 摩訶大将棋

というものです。つまり、小さい将棋から、徐々に駒数が増えて、大型化していったと考えます。ただ、この考え方は説というのではなく、暗黙の了解というべきかも知れません。大型化していったという根拠がきちんと示されたことがないからです。ゲームの進化とはそういうものであるという直観や思い込みのせいかと思われます。

 

なお、本稿では、摩訶大将棋-->大将棋-->中将棋へと至る過程で現れる、以下の考え方については、了解されているものとして説明を始めます。

1)踊り駒の定義(象戯圖の解読より)

2)摩訶大将棋、大将棋では仲人は横にも動く。

3)摩訶大将棋、大将棋では麒麟と鳳凰は踊り駒である。

4)摩訶大将棋には十二支の駒が意図的に組み込まれている。

5)狛犬は不成りである。また、狛犬は師子と同様、居喰いの機能を持つ。

6)摩訶大将棋の鳳凰の成りは狛犬である。

7)摩訶大将棋、大将棋の桂馬の動きは、現代将棋の桂馬の動きとは異なる。

8)摩訶大将棋の玉将は薬師如来に相当した駒である。

 

8)については、再度の説明が必要と思いますので、どこかの稿で詳細します。 

では、以下の「続きを読む」のリンクから、初期配置の図と4つの如来の話となります。

 

 

上図で右側の図a)b)c)d)には、大きな将棋から小さな将棋になっていく際、どの駒が落とされたかをうす緑の表示で示しています。左側の初期配置の図A)B)C)D)の色分けは、投稿201)と同じで、

青=走り駒  赤=踊り駒  緑=歩き駒(動物)  黒=歩き駒(人)

を示します。また、平安大将棋では、注人を仲人、奔車を反車、猛虎を盲虎と、大将棋のままに並べました。

 

各将棋について考える際、実際に駒を並べていただけたらと思います。歴史学と文献学からだけでなく、ゲームクリエイターでの立場からも検討を加えることになって、より正確な考察になるのではないでしょうか。ある程度にはゲームクリエーター的な感覚に基づく類推も必要だろうと考えます。このあとの一連の投稿にて、いろいろな観点から成立順に迫っていくわけですが、本稿で1点だけ事例を挙げます。

 

たとえば、D) --> C)なのか、C) --> D)なのかを問題にしているとしましょう。桂馬と飛龍、香車と反車に注目することにします。ともに類似のペアであり、飛龍は後ろにも動ける桂馬、反車は後ろにも動ける香車です。

 

さて、ゲームクリエーターとして考えた場合、平安大将棋と平安将棋、どちらが先にできた将棋でしょう。平安将棋にある香車と桂馬がかなり不自然ではというのが、私の感覚です。原将棋と想定されるシャトランジでは、歩兵以外はすべて前後左右対称の動きの駒です。これは、金将や銀将についても言えることなのですが、一番始めの将棋を作るにあたって、このような基本的でない動きの駒を導入するだろうかということがあります。

 

平安将棋から平安大将棋を作ったとしましょう。その段階で、香車の上に反車を置き、桂馬の上に飛龍を置くことになるわけですが、ではなぜ、平安将棋のときに、反車と飛龍の動きをする駒を使わなかったのでしょう。こういう点からの考察を含め、次の投稿ということにします。

 

投稿が長くなりすぎていますので、如来の話、少しだけ書きます。詳細はこれも次稿にて。

4つの如来の駒は、次のとおりです。

玉将:薬師如来

盲虎:阿弥陀如来

悪狼:大日如来

嗔猪:釈迦如来

根拠なしではトンデモ説かと思われる可能性大ですので、以下短く説明を残します。なお、如来の駒の話は、摩訶大将棋から大将棋ができる過程で、かなり重大な知見だと考えています。

 

摩訶大将棋の十二支の駒は、それぞれが、玉将(薬師如来)を守護する十二神将に対応しています。また、十二神将にはそれぞれ本地仏があります。十二支の寅(盲虎)、戌(悪狼)、亥(嗔猪)に対応する十二神将の本地仏は、上記のとおり、阿弥陀如来、大日如来、釈迦如来です。

 

ところで、摩訶大将棋から十二支の駒がいくつか落とされて大将棋になったとき、盲虎、悪狼、嗔猪は落とされず残されています。ですので、摩訶大将棋の4つの如来の駒は大将棋でもそのままです。実は、大将棋には、阿弥陀如来の2つの脇侍(勢至菩薩と観音菩薩)、釈迦如来の2つの脇侍(普賢菩薩と文殊菩薩)も残っています。さらに、阿弥陀如来の駒、盲虎は中将棋にまで残ることになります。

 

(次稿に続きます)

 

2017年

2月

05日

201)十二支の駒について

前稿からの続きを書く前に、まず摩訶大将棋の十二支の駒について書いておかねばなりません。十二支の駒については、本ブログにて何度か投稿していますし、次の論文の中でも解説があります。

------

大型将棋の成立順に関する考察: 高見友幸、中根康之、原久子

映情学技報,vol.40,no.11,AIT2016-86,pp.147-150,2016.

------

十二支の駒は、鳥羽上皇が十二枚の駒を使って占いをしたこと(1129年)や、大型将棋の成立順の解明とも関連し、大型将棋史では、非常に重要な観点となります。ところで、本ブログで投稿した範囲内では、摩訶大将棋の十二支の駒は、十二支の順に、

(A)老鼠・猛牛・盲虎・驢馬・臥龍・蟠蛇・桂馬・(未)・古猿・淮鶏・悪狼・嗔猪

としていました。驢馬は「ウサギウマ」ですから卯に割り当てています。未に相当する駒のみ対応がつきません(何らかの理由があったのでしょう)。念のため、下図に、摩訶大将棋の初期配置を示します。

 

摩訶大将棋の初期配置。走り駒:青、踊り駒:赤、動物の歩き駒:緑、人の歩き駒:黒。
摩訶大将棋の初期配置。走り駒:青、踊り駒:赤、動物の歩き駒:緑、人の歩き駒:黒。

 

本稿で補足しておきたいのは、十二支の駒は、必ずしも子・丑・寅・・・という対応そのものでなくてもいいのではないかということです。もちろん、摩訶大将棋の駒名からは、鼠、ウサギ、蛇、鶏、猿といった合戦向きではない駒が取り入れられていますので、これらの駒が十二支を意図していることは明らかです。

 

ただ、その一方で、十二支と直接の関連ではないが、ちょうど12種類になる駒グループが存在しています。それは、摩訶大将棋の場合、以下のとおりです。

 

(B)踊り駒:12種類(上図で赤色に表示)

師子・狛犬・麒麟・鳳凰・力士・金剛・羅刹・夜叉・飛龍・猛牛・桂馬・驢馬

 

(C)歩き駒のうち、動物の駒:12種類(上図で緑色に表示)

老鼠・盲虎・驢馬・臥龍・蟠蛇・古猿・淮鶏・悪狼・嗔猪・猛豹・酔象・猫又

 

(D)歩き駒のうち、人の駒:12種類(上図では黒色)

玉将・金将・銀将・銅将・鉄将・瓦将・石将・土将・無明・提婆・仲人・歩兵

 

易占を行うにあたっては12種類の区分が必要ですが、それを上のA)のように、十二支の名称そのものを使うのではなく、B)C)D)のように、干支の名称の代用として12種類の駒名を使っていたかも知れません。一種の符号として12の方位、12の時刻や日を表現できれば十分ですので、たとえば、師子・狛犬・麒麟・・・を、子丑寅・・・と対応させればいいわけです。

 

摩訶大将棋の駒は初期配置では50種類ありますが、その内訳は、上のB)C)D)の各12種類と走り駒14種類の、計50種類(=12+12+12+14)となります。なお、C)は、十二支の駒A)と9種類が共通で、猛豹、酔象、猫又の3駒が入れ替わっています。

 

いったん、ここで置きますが、延年大将棋(93種類)も本稿と類似の分類をしますと、動物の歩き駒は36種類あります。つまり、新猿楽記(11世紀中頃という推定)の三十六禽の駒ということでしょうか。この件は後日また投稿します。

 

ともかくも、1129年に鳥羽上皇が使った12枚の駒、この時代にすでに12種類の駒グループがあったことは、将棋史にとって重要です。平安将棋の駒は、酔象を加えても7種類、平安大将棋でも13種類ですが、この13種類の中からひとくくりの駒グループを作っていたとみるかどうかは、将棋史のシナリオの描き方次第でしょう。本ブログでは、平安大将棋を易占の将棋、呪術の将棋、神事の将棋とは見ていません。12枚の駒グループを作る作れないという問題以前に、平安大将棋が、日本の国の何かを祈願した将棋、神事として上皇が指した将棋だとは、思いようもありません。これは、盤に駒を並べてみたときの実感からです。

 

つい長く書いてしまいましたが、次稿でまた平安将棋の問題にもどります。次稿では、本稿のD)の歩き駒、12種類の人の駒が重要な糸口となります。

 

2017年

2月

03日

200)平安将棋が一番古い将棋なのかどうか

投稿200)という区切りのいい番号ですので、大きなテーマから取り上げることにしました。将棋史は平安将棋からというのが通説ですが、これにはとりたてて根拠があるわけではありません。盤のサイズと駒の種類が、シャトランジに近いということだけです。

 

平安将棋は二中歴に初期配置が記載されています。初期配置が書かれている古文書の古さという点では、もちろん、最古となるわけですが、将棋という語句だけであれば、もっと古い古文書がありますし、駒の出土も二中歴より古い時代から出ています。その出土駒に、酔象の駒も含まれますが、酔象は平安将棋では使われていません。

 

ともあれ、まず、結論を書きますと、平安将棋は最古ではないというのが本ブログの見解です。論点はいくつかありますが、ゆっくりと書いていきます。投稿198)で大型将棋の収縮について書くはずが書きかけのままでおいています。結局、大型将棋の収縮が、つまり、駒を落としてどんどんと将棋が小さくなっていったのがどこまでか、という問題になるでしょう。

 

摩訶大将棋から大将棋が作られたのは、これはもう完全に確実です。大将棋から平安大将棋へという順序もほぼ確実です(こういうことをきちんと原稿にしないといけないのですが)。大大将棋、延年大将棋、中将棋の成立順については特に問題もありませんので、大型将棋の収縮論で残る問題の将棋は、平安将棋だけということになります。

 

摩訶大将棋そのものが、将棋黎明期にあったのかどうかは何とも言えませんが(途中でいくつかの駒が置き変わったり、多少の修正もあったでしょう)、本稿では、摩訶大将棋に類似したもの、摩訶大将棋類とでも言うべきものを総称して、摩訶大将棋と呼ぶことにします。

 

摩訶大将棋の成立は、890年〜900年ごろ、または940年前後、980年前後かと考えています。数字まで出して書くと、逆に、トンデモ説と思われるかも知れませんが、とにかく10世紀が第1候補でしょう。

 

次の候補は、1100年ごろですが、可能性はずっと低いと考えます。この場合、平安将棋の方が早くに成立していたことになるわけですが、そうだとすると、私には、将棋史は完全に闇の中です。

 

(次稿に続きます)

 

2017年

2月

02日

199)お問い合わせありがとうございました

いろいろありまして投稿がだいぶ空いてしまいました。TGS2016での出展についてたくさんのお問い合わせをいただきました。ありがとうございます。しかし、ほとんどすべてがまだ返信できていない状態です。申し訳ございません。

 

ソースコードの配布という件を何件かいただいていますが、まだコンピュータ摩訶大将棋が卒論のテーマで続いていますので、当分の間は配布せずということでご了解のほど。

 

麒麟鳳凰が踊り駒だというルールがかなり以前からわかっていた旨お知らせいただきました。このことは知りませんでした。復刻は研究室で独立して進めていますが、結果が一致したことを喜んでいます。踊り駒の定義も一致しているのかが気がかりです。

 

アドバンスド摩訶大将棋の配布の件も、1ヶ月というお約束でしたが、まだお送りできておりません。あとしばらくお待ち下さいませ。タイミングを削いでしまうことになりました。この件も申し訳ございません。

 

去年は本ブログへの投稿が少なくなりましたが、また投稿を始めていきます。短い投稿でいきたく思います。

2016年

9月

12日

198)TGS2016: 8)大型将棋の宇宙論: 膨張か収縮か

ひとつ前の投稿197)にて、将棋史のグランドデザインについて少しコメントしましたので、もう少し追加しておこうと思います。如何に頑固に自説を主張したとしても、文献や出土駒と矛盾している場合が、気づかずにあるかも知れません。

 

そういうことを、本ブログで展開しているシナリオ、つまり、「大型将棋の収縮宇宙論」に対して、軽く検証してみたく思います。

 

また、いわゆる、「通説」という言葉で説明してしまいがちなものについても、検証してみます。大型将棋史においては、通説というものは存在しないと言っていいでしょう。通説がこうだからああだから、だから、あなたの説は間違っていますと言われることが、ごくまれですが、あります。そう言われる方は、たぶん、通説だ一般論だというだけで、考えるのをやめてしまっているのでしょう。

 

(投稿中です。今夜書きます。)

 

 

(投稿中です。)

2016年

9月

11日

197)TGS2016: 7)鳳凰と麒麟の踊り:復刻の注目点

摩訶大将棋/大将棋では、鳳凰と麒麟は踊り駒です。この2駒が踊り駒だということは、象棊纂圖部類抄の解読から得られたもので、摩訶大将棋の復刻中ベスト5に入ると言えるでしょう。試験対局を経て、対局会では2年ほど前から採用していたと思います。飛龍や夜叉が踊りであるのに、格上の名前を持つ鳳凰が踊りではないというのは、明らかにおかしいわけですから。同様に、猛牛より格上の麒麟も、当然踊り駒であるべきです。

 

中将棋にも鳳凰と麒麟の駒がありますが、中将棋の方は、ジャンプするだけで踊りの機能はありません。もちろん、この動き方もこれで正しいわけです。

 

ところで、駒の名前が同じなら動きも同じであるというのが将棋の原則ですが、鳳凰と麒麟の場合、この原則からは外れます。最近の投稿193)で仲人の駒の動きが、中将棋の成立当初で変わったということを説明しましたが、鳳凰と麒麟も、このときの理由とほぼ同じ理由で、もともとの動きから変わったようです。象棊纂圖部類抄では、或説曰(或る説曰く)という言い方を用いており、中将棋の成立当初では、2つの動き方が採用されていたものと思われます。

 

少し脱線しますが、13世紀後半の鳳凰の駒が鶴岡八幡宮から出土しています。裏は奔王です。しかし、これだけの情報では、この駒が踊ったのか踊らなかったのかは不明です。ただ、少なくとも13世紀後半には、大将棋が成立していたことが確実となります。したがって、摩訶大将棋も成立していたのです。中将棋が成立していたかどうかは、これだけでは結論できませんが、中将棋という単語が日記等に現れ出すのは、15世紀前半まで待たねばなりません。中将棋は13世紀にはまだ存在しなかった可能性が高く、鶴岡八幡宮の鳳凰の駒は、たぶん「踊っていた」と思われます。

 

本ブログでは、摩訶大将棋を大型将棋の起源近くにある将棋として、将棋史のグランドデザインを描いています。文献や出土駒は、そうしたグランドデザインの正否を検証するものですが、上記の鳳凰の駒は、本ブログのシナリオに全く抵触しません。もし大将棋も摩訶大将棋も13世紀後半にはなかったというシナリオだったならば、それは完全にNG、間違いが確定するわけです。

 

象棊纂圖部類抄の解読については、以下のリンクに書きます。興味ございましたらご一読のほど。

 

 さて、中将棋の図の後の注釈には、次のように書かれています(関係箇所だけを抜き書き)。ほぼ同じ箇所は、投稿193)でも使っています。古文書の該当部分の写真は投稿120)にありますのでご確認下さい。

 

或説云・・(中略)・・・ 鳳凰仲人等行度如大象戯

 

「ある説曰く」というのは、その説が現状の説とは違うということが前提になければなりません。ですので、「ある説曰く」という文言だけで、動き方は2種類あったことがわかります。

 

ある説では、鳳凰と仲人の動きは、中将棋と大将棋で同じだと言います(行度如大象戯)。

しかし、たいていの場合、そうではなくて、動きは大将棋と中将棋で違うのです。

 

仲人については、投稿193)にて説明ずみですが、これと同じ論理で、鳳凰の動きも違うらしいことがわかるのですが、どう違うのか? このヒントは古文書の同じ箇所、2行右側に次のとおり書かれています。

 

鳳凰飛角 不如飛竜(鳳凰角に飛ぶ 飛龍の如くにはあらず)

 

中将棋での鳳凰は、ななめ方向の1目をジャンプして2目に着地します。

この説明が「鳳凰飛角」、続いて、飛龍のようではない、と書かれています。

ところで、飛龍は踊り駒です。ななめ方向2目の位置にジャンプするのですが、

つまり、鳳凰と同じ着地点なわけです。

 

まとめますと、次のとおりです。

大将棋の飛龍の着地点は斜め2目の位置、そして、踊り駒です。

中将棋の鳳凰の着地点は斜め2目の位置、しかし、踊りません。

だから、「不如飛竜」なのです。

 

ところで、こんな明らかなことを、わざわざ書く必要があるのでしょうか。取り立てて書く必要はないはずです。注釈として書くのならば、もっと動きの複雑な駒について書くべきでしょう。鳳凰を取り上げた意味は、仲人を取り上げて「横に行かない」とわざわざ書いたのと全く同じ意味合いを持ちます。鳳凰は飛龍とは同じでないと注意を促しているのは、逆に言えば、鳳凰の動きは飛龍と同じ場合があるので、注意しなさいということです。

 

こうした点が、はじめに示した「或説云・・・鳳凰仲人等行度如大象戯」の解釈につながります。ある説では、中将棋の鳳凰の動きは、大将棋の鳳凰の動きと同じである。つまり、ふつうは、違うのです。大将棋の鳳凰は、飛龍と同じで、踊る駒なのです。

 

いかがでしょう。このようにして、鳳凰は、大将棋では、踊り駒だったことがわかります。麒麟についても、同様で、大将棋の麒麟は踊り駒だったのです。「鳳凰仲人等」の等は、麒麟を書かなかったことによります。等の字を使わないとすれば、鳳凰仲人麒麟行度如大象戯ということです。この3駒以外では、動きの変更があったかも知れない候補は、師子です。師子が、「等」の部分に含まれることは十分にあり得ます。この件、話題が違いますのでまた後日の投稿とします。

 

冒頭でも書いたことですが、麒麟の動きが大将棋と中将棋で同じ、つまり、麒麟は踊り駒でないとお考えなら、麒麟と猛牛をどうぞ天秤させてみて下さい。猛牛は踊り駒です。麒麟は踊りではないかわり、ななめにも行ける。さて、この程度の違いで、霊獣の麒麟が我慢できるのかということです。

 

理論将棋史学と合わせて実験将棋史学にも関わっている方は、十分にご存知のはずです。これまでの大将棋の踊らない麒麟に、ずっと違和感を覚えておられたことでしょう。是非、霊獣麒麟の真の動きを試してみて下さい。その上で、大将棋の麒麟は踊りませんね、という人がいるとしたら、私はその方とは一切大型将棋は指さないでしょう。また、その方と将棋史の話をするのもあきらめます。

 

2016年

9月

09日

196)TGS2016: 6)象棊纂圖部類抄の読み方:大将棋の注釈

象棊纂圖部類抄の大将棋(15マス)の復刻について書きます。象棊纂圖部類抄は全編がパズルのような古文書ですので、そのまま素直に読んだだけでは、何も出てきません。たとえば、投稿193)で書きましたが、中将棋のところに「仲人不行傍」と書かれていることから、間接的に、大将棋の仲人は傍らに行くというルールを知ることができるのです。

 

結論からまず書きますと、大将棋も、摩訶大将棋と同様、とても面白い将棋だということがわかります。大将棋では、摩訶大将棋にあった強力な大駒が多数取り除かれていますので、戦局が落ち着き、現代将棋に近い趣きになります。どちらが面白いかという話ではなく、個人的な好みの問題でしょうか。同じ競技でも種目が違うという感じです。400m走と5000m走、平泳ぎと個人メドレー、鉄棒と床運動、そういった感じです。

 

さて、象棊纂圖部類抄の大将棋の箇所ですが、大将棋の図の後ろには、短い注釈が2行書かれているだけです。次のとおりです。

 

大象戯成馬 以上三枚

酔象成太子 鳳凰成奔王 麒麟成師子

 

ただ、この部分、文章が言葉足らずなのです。きちんと写本されなかったのだろうと考えます。そのままに読んでしまうと正しい解読はできません。この続き、次のリンクにて書きます。

 

象棊纂圖部類抄の大将棋の成りの注釈を、そのとおりに読むと、成りは3つだけで、他の駒はすべて不成りということになってしまいます。もちろん、この記述どおりだとするのもひとつの解釈ではありますが、本ブログでは、わずかな写本のミスだとみます。

 

象棊纂圖部類抄から派生した江戸時代の古文書もここの解釈は悩んだようです。そのままの解釈(3つ以外はすべて不成り)をとる古文書はなく、たとえば、大象棋絹篩(1821年)では、中将棋にある駒は中将棋のとおり、ない駒は大大将棋に準ずるとしていますが、信頼性ゼロです。つまり、江戸時代の古文書はすべてが、将棋は、小さな将棋から順に大きな将棋へと発展していったとする考え方で貫かれているため、より小さい将棋をルールの基準としているにすぎないのです。

 

さて、どこが写本のミスか。次のとおりです。

 

写本どおりの解釈:大将棋の成りは3つ(酔象、鳳凰、麒麟)だけ。

もともとの記述:大将棋の成りで従来から変更したものは3つ(酔象、鳳凰、麒麟)だけ。

 

ほんのわずかな言葉足らずだったわけですが、上のように解釈すると、将棋の発展順とも矛盾せず、大将棋が後世にまで残った「成功した」将棋だということもわかります。

 

もともとの将棋(大将棋の前に存在した将棋)は何であったかですが、この候補としては、摩訶大将棋だけです。大型将棋の成立順については、一番最近では、投稿186)にて概要だけを紹介していますが、技術報告として4ページにまとめており、国会図書館にて入手可能です。

http://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I027209590-00

この報告は、展示会のときには、来場者の皆さんに配布もしています。

 

投稿186)にはいくつかコメントも入っていますが、この時分は返信がむずかしかったころです。返信なしのまま失礼しています。広将棋についてですが、その存在を示す古文書がなく議論はむずかしいと考えます。大将棋という語句の問題ですが、文献に記載されている、中将棋(12マス)、平安大将棋(13マス)、大将棋(15マス)、大大将棋(17マス)、摩訶大将棋(19マス)の5つの将棋だけが大型将棋史の議論の対象であると考えています。このスタンスについては、先日の投稿195)にも書きましたとおりです。この5つ以外の将棋Xを想定されましても、そもそも初期配置や駒種の全部がきちんと決まりません。ですので、将棋Xを基にした議論は無理ではないでしょうか。どうしても感想合戦になってしまいます。

 

脱線してしまいました。象棊纂圖部類抄の大将棋の成りが、従来のものから変更された、という話からです。では、その従来の将棋は何でしょうか?

 

候補は、ともあれ、中将棋、平安大将棋、大大将棋、摩訶大将棋の4つしかないわけです。この4つが全部、候補として合理的でないのなら、「変更前の将棋」は不明とせざる得ません(ここで、将棋Xを想定すると、将棋史の議論ではなくなります)。または、本稿の仮説(写本がミスしている)が間違っているというのが結論になります。

 

果たして候補はあるのかどうか。それがきっちりあるわけです。摩訶大将棋です。

それでは、以下確認していきます。

 

酔象の成り: 王子(摩訶大将棋)--> 太子(大将棋)

鳳凰の成り: 狛犬(摩訶大将棋)--> 奔王(大将棋)

麒麟の成り: 師子(摩訶大将棋) 大龍(大大将棋)--> 師子(大将棋)

 

もとになる将棋は大大将棋ではありません。大将棋と大大将棋は駒種に不一致があります。一方、大将棋の駒は摩訶大将棋にすべて含まれます。麒麟の成りは、摩訶大将棋から変わっていませんが、大将棋の成立時、すでに大大将棋ができていたものと思われます。麒麟の成りが師子なのか大龍なのかを明確にするためのものでしょう。

 

酔象、鳳凰、麒麟以外の成りは、従来と同じ(=摩訶大将棋と同じ)という解釈ですので、残りの成りは全部決まります。なお、大将棋と大大将棋の成りの比較をしていただくとわかりますが、成り先については、麒麟のみが不確定なことがよくわかると思いますので、ご確認下さい。とてもうまくできています。

 

以上、まとめますと、大将棋の成り駒は、摩訶大将棋とほぼ同じです。鳳凰については、成り先の狛犬が大将棋にありませんので、その代替に奔王が選ばれました。酔象の成りが王子から太子に変わったのは、投稿103)の議論のとおり、言葉の使い方が時代とともに変わったということでしょう。

 

このように、成りが確定できたことで、大将棋を遊ぶことができます。大将棋を指されている皆さん、どうぞこのルールで対局をお試し下さい。奔駒に成る駒がまだ多数残されていますので、摩訶大将棋ほどではありませんが、豪快な将棋となります。対局時間も1時間以内です。そして、摩訶大将棋とは面白さの種類が多少変わりますが、やはり面白い将棋です。

 

本稿、次の3点確認いただきたく思います。

1)平安大将棋は面白くないが、大将棋(15マス)は面白い。

2)象棊纂圖部類抄の大将棋の後の注釈と中将棋の後の注釈は、同じスタンスで書かれている。つまり、注意すべき点のみ(変更になった点のみ)を注釈している。

3)本稿の結論は、大型将棋の成立順を前提としていない。しかし、結果的には、摩訶大将棋 --> 大将棋の成立順を支持する。

 

今後の対局会は、摩訶大将棋、大将棋の両方で実施する方向でいこうと思っています。

しばらくしましたら、コンピュータ大将棋もリリースする予定です。

 

2016年

9月

08日

195)TGS2016: 5)明月記の大将棋:「三盤了」の謎

藤原定家の日記「明月記」、正治元年(1199年)五月十日の条に「三盤了」が出てきます。

 

自夜暁更甚雨如注、終日不休、河水大溢、依番為上格子参上、

殿下出御、於御前指将碁、国行被召合、三盤了、殿下御堂了退下

 

後鳥羽上皇の御前で定家が将棋を指したという記事です。文面の流れからも(洪水が起こり、その報告に行きました。そして、・・・という流れです)、当時の将棋が単なる遊戯でないことは明らかですが、本稿のテーマはこの件ではなく、対局数の方です。三盤了。3回も指したというのです。

 

この三盤了のことは、ずっと謎でしたが、今年7月の学会発表で、その答えの候補を提示できたものと思っています。指された将棋は、現状で既知の将棋から選ぶとすれば、大将棋か摩訶大将棋でしょう。少なくとも、指された将棋は平安将棋や平安大将棋ではありません。本稿、この点がテーマとなります。以下、次のリンクに。

 

日本の古代・中世の将棋を具体的に記述する古文書は、実は2つしか残されていません。13世紀はじめに編集された事典「二中歴」と、15世紀の写本で各種大型将棋について書かれている「象棊纂圖部類抄」だけです(※注1)。象棊纂圖部類抄(1443年)のあとの将棋本で最も古いものは諸象戯図式(1694年)ですが、象棊纂圖部類抄から250年も後の時代ということもあって、間違いを誘う情報も多く含まれます。これ以降にもいろいろな将棋の古文書が出版されていますが、象棊纂圖部類抄を超える情報を提供する本はありません(※注2)。結局のところ、将棋の黎明期を探るためには、現状では、二中歴と象棊纂圖部類抄の情報だけが頼りだと言えるでしょう(※注3)。

 

この2つの文献に記載されている将棋の種類は次のとおりです。

 

    二中歴: 平安将棋(8マスか9マス 未確定)、平安大将棋(13マス)

象棊纂圖部類抄: 中将棋(12マス)、大将棋(15マス)、大大将棋(17マス)、

         摩訶大将棋(19マス)、延年大将棋(25マス)

 

したがって、現時点で、将棋の駒、初期配置、ルール等の具体的な内容にまで踏み込んで議論が可能な将棋は上記の7種類しかありません。このうち、延年大将棋は文字通り、延年の儀式のツールとしての将棋ですので、遊戯としての将棋は6種類となります。

 

本稿、くどくどと書いています。

脈絡なく突然にですが、言いたかったことは次のことです。

 

古文書に書かれて現代にまで伝わった将棋に対して、私たちはそれなりの敬意を払わねばと思っています。将棋をよく知るある人物が、その将棋を取り上げ、古文書に残した、この事実は重要です。このことは、いろいろな点でその将棋が「面白かった」に違いないことを教えてくれています。

 

ですので、象棊纂圖部類抄の中で言えば(遊戯そのものが伝わった中将棋は別として)、大将棋、大大将棋、摩訶大将棋は、重要視しなくてはいけないのです。大将棋は面白くない、指されたことはなかっただろう、多くの文献でこういう表現を見てきました。直感的にはそうでしょうが、古文書にきちんと伝わってきた将棋はそういうものではありません。

 

実を言いますと、象棊纂圖部類抄の大将棋(15マス)のことを、私もさほど気にかけていませんでした。はじめは、あまり面白くはない将棋だろうと思っていましたが、これは完全に間違いです。この件、明日の投稿にて詳細します。

 

たとえば、平安時代か鎌倉時代かに、摩訶大将棋よりもまだ大きい21マスの将棋Yがあったとしましょう。しかし、この将棋Yは広い意味で「面白くなかった」と考えていいでしょう。象棊纂圖部類抄の原本(遅くとも1443年以前)は、この将棋を取り上げなかったのですから。たとえば、平安大将棋とは違う別の13マスの大将棋Zがあったとしましょう。しかし、この大将棋Zも面白くなかったのです。仮にごく短い期間成立していたのだとしても、それは面白くはなく、すぐに消え、古文書には取り上げられなかった。遊戯にとって、その痕跡の有無は面白さの有無でもあります。

 

さて、平安大将棋についてです。まだ結論は出せていませんが、平安大将棋に面白さがあるのかどうかという点、いかがでしょう。個人的には、徐々に二中歴の記述の方を疑いつつあります。二中歴は事典であり将棋本ではありません。二中歴の編著者の将棋の知識は確かだったのでしょうか。平安時代と現代とでは違うという方もおられますが、人がその遊戯を面白いと感じるかどうかは、たぶん変わらないのではないかと。

 

ここで再び、脈絡なく飛びます。

 

ところで、大型将棋史には、通常の歴史学とは大きく異なる点があります。研究対象の時代に実際に戻ることができるという点です。それは空想の中でなく、現実の中で戻ることができるのです。たとえば、現代の私たちが平安時代の将棋をそのままに遊ぶということです。試しに遊ぶことができる。これはすばらしい!

 

やっと、本稿のタイトルの件になります。明月記に登場する将棋は、時代的には、平安将棋または平安大将棋が想定されることが多いのですが、明月記の他のところで、将棋の駒の動きが思い出せない云々の話があり、また、同時代の関連する古文書の記述も考えあわせれば、明月記の将棋は大型将棋の一種だと思われます。

 

さて、明月記の将棋が平安大将棋だったとします。皆さんは平安大将棋を3回指すことができるでしょうか。今のところ、私は無理です。だから、平安大将棋ではないと言い切るつもりはありませんが、それよりも、ずっと可能性の高い候補があるのです。大将棋(15マス)と摩訶大将棋。昼から夕方までの時間だとして、3回なら十分に指すことができるでしょう。

 

大型将棋史は物理学に似たところがあります。理論将棋史学と実験将棋史学。本来的に、歴史学は文献学と考古学の上に成り立ちますが、大型将棋史では、さらに、実際に遊ぶ、試しに遊んでみるという作業を加えることができます。実験将棋史をする人を私は何人か知っていまして、その方々をとても敬服し、とてもなつかしく感じている次第です。

 

とりとめなく書いてしまいました。大雑把ですが。きちんとはまたいずれ再度の投稿とします。ともあれ、文献上にない将棋、将棋盤の上に並べることのできない将棋は、大型将棋史の将棋ではなく、文学の将棋ということになります。

 

-----------

※注1)「象戯圖」(水無瀬神宮所蔵)もほぼ同じ文献です。

 

※注2)大型将棋の駒の動きに関するWikipediaの情報が間違っているのは、江戸時代の古文書だけを情報源としているからだと思われます。勝手な想像ですが、象棊纂圖部類抄や象戯圖は、かつては入手困難だったのかも知れません。

 

※注3)もちろん、各種日記や物語中からも将棋に関する情報を抜き出すことはできますが、将棋のルールや使用する駒について具体的に書かれているのは、二中歴と象棊纂圖部類抄だけとなります。

 

2016年

9月

07日

194)TGS2016: 4)仲人の駒はペルシア伝来か

Tamerlane chessの別バージョン(アラビア語の文献)
Tamerlane chessの別バージョン(アラビア語の文献)

将棋の伝来元としてのペルシアについては、これまでも何回か書いてきました。たとえば、投稿188)、182)、179)、176)、157)等で、古代ペルシアの将棋Shatranjとその大型系列を取り上げてきました。

 

日本の将棋の起源が議論されるとき、たいていは、中国からの伝来か、または、東南アジアからの伝来を考えるのが普通です。その際、皆さんが思い浮かべているのは、現代将棋か小将棋であって、大型将棋については全く考慮されていません。その大きな原因としては次の2点でしょう。

 

1)将棋は小さい将棋から大きい将棋へと発展していったという先入観がある。

当然、小将棋が一番始めという前提ですから、起源を考える際には、小将棋のことしか問題にされていないように思います。

 

2)大型将棋は対局された将棋ではなかっただろうという思い込みがある。

大型将棋は遊戯としては重要でないということで、考えの対象から自然に外れてしまうのかも知れません。

 

ところが、世界の将棋との類似性という観点で見てみれば、これまで無視されてきた大型将棋の方に多くの類似を見ることができるのです。詳細については、上記しましたこれまでの投稿を参照していただくとして、本稿では、思い切り踏み込んで、大型将棋と大型チェスの関係性まで空想してみたいと思います。

 

まず、冒頭の図面ですが、大英博物館のアラビア語の文献:ms7322からです。

図は、14世紀のTamerlane chess(チムール朝の将棋)から派生したShatranjの大型系列とされていますが、まだまだ不明な点は多いようです。ところで、この将棋には、pawn(歩兵)の列の上にまだあと3つの駒が並んでいます。まるで仲人の駒のようではないですか。長くなりますので、続きは、以下のリンクにて。

 

さて、将棋類の初期配置ですが、歩兵が最前列で並ぶのが普通です。チェス、シャンチー、シャトランジ、マックルック等、世界の将棋類を調べる限り、歩兵の列の前に飛び出した駒をもつのは、摩訶大将棋系列の将棋(※注1)の他では、上図に示した大型Shatranj:ms7322しかありません。中世のスペインやドイツには大型チェス系列が存在しましたが、それらも皆、最前列には歩兵(Pawn)だけが並びます。

 

ペルシヤと日本だけに見られる、この初期配置の一致。これをどう見るべきでしょう。上に飛び出した仲人相当の駒は、それぞれの場所で独立に創案されたのか、ペルシアの形式が日本に伝来したのか、でなければ、日本からペルシアへと伝搬したものか。ただ、この初期配置の一致は、どうも偶然ではなさそうです。なぜなら、摩訶大将棋系列と大型Shatranjには、もうひとつ別の一致が見られるのです。

 

大型Shatranjには、成るとPrince(王子)になる駒があります。この駒ができた場合、たとえKing(玉将に相当)が取られたとしても負けではなく、勝つためには、KingとPrinceの両方を取らねばならないというのが、大型Shatranjのルールです。摩訶大将棋系列のルールと全く同じではないですか。

 

しかも、Princeになる駒は、初期配置では、Kingのちょうど前にあります。この点でもまた、酔象と玉将の位置関係のとおり。さらに、このPrinceのルールが、世界の他の将棋類には見られず、摩訶大将棋系列と大型Shatranj系列だけの特徴でもあります。独立に創案されたとは考えにくいのではないでしょうか。

 

なお、途中に位置する中国の影響をどう考えるかという問題が残るのですが、中国の将棋(シャンチー)は、大型Shatranj系列とはかなり異なります。仲人相当の配置もなく、王子相当の駒もありません。多彩な成りのルールもないのです。仮にペルシアからの伝来を想定したとすれば、中国は素通りしたということになります。ペルシアから来た伎楽面が、ちょうどこの伝来形態で、中国には伎楽面が全然残されていないのに、正倉院や東大寺に多数伝わっています。

 

(この話題、あと2週間ほど置かせて下さい。ここから、大型Shatranj系列の説明をしないとその先に進めないのですが、予想したよりも文章がずっと長くなりそうです。TGS2016に向けた話題からも遠ざかっています。中途半端で終わり、すいません。)

 

※注1)

中世の古文書に名前がきちんと登場する大型将棋(摩訶大将棋、大大将棋、大将棋、延年大将棋、中将棋)を考えたとき、その発展の出発点が摩訶大将棋だったことはほぼ確実ですから、これらの大型将棋を摩訶大将棋系列と呼ぶことにします。もちろん、まだ見ぬ古文書に未知の将棋Xが存在しているかも知れません。ただ、UFOを見た見ないの議論を避けるとすれば、将棋Xは存在しないものとして議論を進めていくのが、大型将棋史の正しい方法論だと考えます。

 

なお、平安大将棋が、摩訶大将棋系列なのかどうかは、あとしばらく問わずに行きます。この件もまた大きな問題を含みます。後日の投稿になります。

 

2016年

9月

06日

193)TGS2016: 3)仲人の駒の復刻

仲人については、以前の投稿116)、140)、169)、170)にて書いていますが、TGS2016に向けて、もう一度本稿でまとめてみようと思います。これらの内容は、今年になってからも3つの学会で発表し、異論はなく概ね受け入れられている考え方です。

 

ところで、摩訶大将棋の復刻の説明は、どの場合でもそうなのですが、これまでの通説は間違っていますということの説明でもあります。ですので、どこが違うのかという点からスタートする方がわかりやすいでしょう。仲人の駒は中将棋(12×12マス)、大将棋(15×15マス)、摩訶大将棋(19×19マス)のいずれにも含まれる駒で、前後に1目だけ動く駒とされてきました。ほとんどの古文書にそう書かれていますし、そもそも遊戯自体として現代にまで伝わっている中将棋の仲人がそのように動くのですから、疑いようもありません。駒の名前が同じであれば、駒の動きも同じであるというのが将棋の原則、中将棋がそうであれば、大将棋や摩訶大将棋の仲人もそのように動くのです。

 

しかし、実際はそうではなく、仲人の動きは、中将棋と大将棋/摩訶大将棋では違っています。この点は、上記の投稿にて詳細していますので、そちらを参照いただくとして、以下、考えの流れのみまとめてみます。

 

ところで、この議論には、大型将棋の成立順が関係しています。この件も、本ブログでたびたび取り上げていますが、話を煩雑にしないため、まず大将棋と中将棋の仲人だけに絞ります。この2つの将棋の成立順については、大将棋が先に成立し、中将棋が後世にできたということで、通常、議論の余地はありません。なお、この成立順は仲人の動きの復刻とはほとんど関係しませんが、成立順も念頭に置けば、さらに納得しやすいでしょう。では、この続き、長いですが、すぐ下のリンクを。

 

解読すべき古文書は、象棊纂圖部類抄(東京都立図書館)です。象戯圖(水無瀬神宮)を使っても同じです。結論を先に書きますと、「仲人は前後だけでなく左右にも1目動く」ということです。もちろん、古文書の中に、このことは(左右にも動くということは)どこにも書かれていません。書かれていないことを読み取るのが古文書解読の面白さです。

 

古文書の記述は次のとおりです。中将棋の図面の後ろ、中将棋の駒の動きを注釈している箇所です。

 

仲人不行傍・・・(中略)・・・或説曰・・・(中略)・・・鳳凰仲人等行度如大将棋

 

仲人、傍ら(かたわら)に行かず。つまり、仲人は横には動かない(=傍らに行かない)と書いてあります。傍らに行かないと書いてあるのは、本来ならば、傍らに行くという意味です。仲人は横に行かない、だから、そのとおり、横に行かないと書いた、というのではありません。中将棋には、動きのもっと複雑な駒がたくさんあります。注釈を入れるとすれば、仲人のような単純な駒を取り上げるようなことはしなかったでしょう。この箇所は、中将棋の駒の動きで注意すべき点のみ取り上げたものと解釈すべきです。(仲人は、これまで横に動くことができましたが、中将棋では横に動くことができませんので、注意して下さい、というふうに解読します。)

 

古文書はその後、或る説曰くと続きます。或る説によれば、鳳凰や仲人の動きは大将棋と同じである、と書いてあります。中将棋では、仲人は横には行かないけれども、或る説によれば、大将棋と同じように、横に行くというルールの場合もあるということです。

 

つまり、中将棋になって、仲人の動きが変更されたわけです。もともと大将棋にあった仲人の動き(前後左右に動く)が、中将棋では変わってしまいました(横には動かない)。ただし、一部では、まだ大将棋の動きのままということもあったのでしょう。この注釈が書かれたのは、中将棋が確立していなかった頃のことです。つまり、中将棋の黎明期。それが、写本の奥書からは、遅くとも1443年です。中将棋が成立した時代とよく合致しているのではないでしょうか。中将棋という語句が日記に現れ始めるのは、ほぼこの時代あたりからです。

 

中将棋(12マス)が大将棋(15マス)よりも後で成立したというのは、いろいろな観点から見て確実なのですが、それでもなお、中将棋が早くに成立したと主張される方もおられます。しかし、中将棋の仲人がもともとからあった仲人なら、大将棋の図面の後ろに、仲人は横に行く、という注釈が入っていたことでしょう。

 

以上の考え方(仲人は前後だけでなく左右にも動く)は、別の観点からも導きだすことができます。つまり、根拠はひとつだけではありません。それぞれの観点から出た結論は、全部同じ方向を向いています。これは、大将棋/摩訶大将棋の仲人の動きについてだけでなく、大型将棋の成立順についても同様です。本稿では、いちおう、本来の仲人(原初の仲人)が横に動く根拠(タイトルのみ)を列挙しておきます。詳細は、前記の投稿を参照下さい。追加すべき事項も少しありますが、またの投稿といたします。

 

原初の仲人が横に動く根拠:

1)象棊纂圖部類抄の中将棋の図面の後ろの注釈 <-- 本稿の内容です。

2)普通唱導集:大将棋の箇所、「仲人嗔猪之合腹」の説明 <-- 仲人が横に動くからこそ解釈可能

3)大将棋/摩訶大将棋の歩き駒の分布から <-- 前後左右に動く仲人の存在は必須です。

4)摩訶大将棋の土将の存在 <-- 仲人が前後のみの動きだと不合理

5)大将棋/摩訶大将棋の遊戯性の観点から <-- (未投稿。しかし、この点も強い根拠です。)

 

本稿に関連する事項は多々ありますが、長くなりますので、これも短い注釈のみ列挙しておきます。できれば、TGS2016までに別件としてまた投稿します。

 

a)二中歴の信頼性(注人の記述も問題ですが、それ以上に、横行の存在が。。。)

b)中将棋に前後左右に動く駒がない点(初期の時代の将棋でないことは、この点からも明らかです。)

c)大将棋の成り駒について(大将棋の図面の後ろの記述も変更箇所のみのようです。したがって、大将棋にも奔駒があったと解釈するのが妥当です。)

d)象戯圖:摩訶大将棋の仲人の朱点(この図がなくても本稿の件成立です。ただ、

このページに記載の「猛豹博士」が重要。)

e)麒麟と鳳凰が踊り駒であること(本来の仲人が横に動くなら、本来の鳳凰も

踊り駒ということになります。踊らない鳳凰や麒麟は15世紀になって出てきたものと

思われます。)

 

いったんこのあたりで置きます。上記のa)〜e)の中では、c)が大きな話題です。

仲人の話題が終われば、次の投稿はこの点を書きます。本稿関連であと1点、ペルシアの将棋Shatranjの仲人のことは書いておかないといけません。

 

2016年

8月

26日

192)TGS2016: 2)復刻された将棋であるということ

摩訶大将棋は復刻された将棋です。私たちの研究室で対局している摩訶大将棋のルールは、

可能な限り、古文書の解読に基づいています。

 

ただ、ごくまれにではありますが、摩訶大将棋のルールはこう変えた方がいいのではないでしょうかと主張される方がおられます。しかし、私はそういう考え方に全く興味が持てません。平安時代に指されたとおりの摩訶大将棋を今そのままに指すということに意味があると考えます、昔のとおりということ自体が面白いのです。ルールを勝手に変えた摩訶大将棋、それは現代摩訶大将棋と呼ばれるべきものでしょうが、その現代摩訶大将棋を指したいとは全然思いません。

 

ところで、物事はうまくなっているもので、古文書のとおりに復刻したルールが、つまり、当時の摩訶大将棋のルールが結局一番面白いという結果になりそうです。そもそも面白くなければ、千年近く前の将棋が、古文書のくり返された写本の中に脈々と伝わることもなかったでしょう(※)。

 

今まで、摩訶大将棋は駒を並べただけのもので、対局されたことはなかっただろうと考えられていました。なぜなら、対局しても面白くなかったからです。これがルールだろうというルールでもって、研究者が対局を試み、愛好家が対局を試みたのでしょうが、面白くなかったのです。確かに面白くありません。しかし、それはルールの解釈だけの問題でした。古文書をきちんと解読すれば、これまでルールとされていたものは間違いだったと言わざるを得ません。次稿で、この具体例をいくつか示すことにします。

 

----------

※)こうした観点からは、平安将棋と平安大将棋についてはまだまだ考察が必要だと考えます。または、二中歴の記載が正確なのかどうかということまで考えるべきかも知れません。 

2016年

8月

26日

191)TGS2016: 1)出展に向けて

投稿189)にて速報しましたとおり、東京ゲームショー2016のインディーゲームコーナーにて、アドバンスド摩訶大将棋の展示が採択となりました。展示の要旨は以下のとおりです。今日からTGS2016が始まるまでの間、摩訶大将棋のことを本ブログにて詳しく伝えていきたいと思います。

 

直結のURLは次のとおりです。ブログのタイトルをMaka-Dai-Shogi-04とし、これまでのブログのような漢字入りのURLではなくなりました。海外からの直接のアクセスも期待できそうです。

http://www.takami-lab.jp/maka-dai-shogi-04/

 

----------------

摩訶大将棋は、平安時代後期に創案された日本の大型将棋です。縦横19マスの将棋盤と、敵味方合わせて192枚、50種類の駒を使いますが、その駒数の多さのため、実際に対局されたことはなかっただろうと考えられてきました。4年前より私たちの研究室では、室町時代の古文書や平安時代の日記、随筆に基づいて、摩訶大将棋のルールの復刻を進め、ルールの通説(江戸時代の古文書の内容)の多くは間違いであるという結論に至りました。その結果、摩訶大将棋は実際に対局された将棋であり、非常に面白いボードゲームだということがわかっています。

 

ブースでは、この摩訶大将棋にコンピュータ支援機能とネットワーク対局機能を付けた電脳摩訶大将棋(=アドバンスド摩訶大将棋)を展示し、復刻されたルールの紹介もいたします。また、そのような復刻の元となった古文書解読のこと、駒の名称の意味、大型将棋史や将棋の伝来についても説明させていただきます。

 

摩訶大将棋はボードゲーム/遊戯であると同時に、古代の合戦や仏教の世界観、陰陽道の占いを絶妙のゲームシナリオでもって表現する将棋です。また、摩訶大将棋の駒の起源を辿れば、薬師如来、十二神将、伎楽、狛犬と師子、法華経、易占、古代ペルシアとの関連性が見えてきます。摩訶大将棋には、古代日本の文化史が盤と駒の向こう側に見え隠れしていることは確かです。

 

復刻を重ねるにつれ、摩訶大将棋のルールのもつ緻密さが明らかになり、したがって、対局されたに違いないことも明らかで、また、平安時代後期にこのようなゲームを創作したゲームクリエイターが日本にいたことにも驚かされています。私たちは摩訶大将棋の制作者ではありませんが、長らく埋もれていた摩訶大将棋の発掘者として発表させていただきたく思います。