06)の投稿で、三条西実隆の日記を取り上げましたが、大将棋との関連を探るためにはもっと古い時代の日記でなければならないことがわかりましたので、最近は鎌倉時代の日記を中心に調べています。
12~13世紀の日記によれば、主として大将棋が、身分の高い公卿とその家来の間で指されているらしいこと、遊戯ではない何か他の要素があって指されているらしいことがわかっています。次の文献です。将棋をする形態が14世紀を境に(中将棋成立以降とそれ以前とで)異なっているという報告です。
中世日本における将棋とその変遷(大下博昭)
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AN10113157/nk_14_23.pdf
また、この報告に関連した事項としてですが、たとえば、明月記(1213年4月27日)には、次のような記述があります。
四位仲房、此間聊病気、昨日自云、心神已不弁前後太惘然、是已及死期、
試差将棋、即與侍男始将棋、其馬行方皆忘、不終一盤云、已以爲覚悟、
是即死期也、太心細、慾見家中懸、侍男巡見家中了、安坐念佛二百反、
即終命、不幸短命太可悲
どうも死期が近づいているようだ、試しに将棋を指してみよう、駒の動かし方が分からない、やっぱりだめだ、そこで、
安坐念仏二百反
と書かれています。多分に憶測ですが、この場合、将棋は死期を悟るためのツールとして使われているようです。極楽往生を真剣に考えた時代、死ぬ直前には念仏を唱えることが絶対だったのでしょうか。このような極端な例でなくとも、大型将棋は、かつては、脳トレであったということはないでしょうか。
自分の家の中で、それも家来とだけしかしないという点、観戦が多いという点、遊戯だけの目的としてはなかなか説明がむずかしいです。
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溝口和彦 (日曜日, 01 4月 2012 01:59)
色々疑問があります。
「12~13世紀の日記によれば、主として大将棋が、身分の高い公卿とその家来の間で指されているらしいこと」
←「大将棋」の記事は『台記』の1箇所のみなので、「主として大将棋」とはいえないと思いますが。
←「身分の高い公卿とその家来の間で指されているらしいこと」が普通であったとは読めないのですが。身分の高いものが家来同士に将棋を指させ、自らは観戦をしていたと思われます。家来に負けるわけにはいかないのでこの形になったのではないでしょうか。
長さん (月曜日, 02 4月 2012 17:20)
プロの棋士は夢の中で、将棋をきちんと指すと聞いてます。
小将棋なら駒の種類は少ないので、死期が近いくらいで駒の動かし方
が判らくならないですよね。藤原定家は大将棋系を指そうとしたので
しょうし、大将棋系には当時から、動かし方に異説が有り、相当に、
ややこしかったのかもしれませんね。
T_T (火曜日, 03 4月 2012 21:20)
溝口さんへ
確かに、紹介の文献からは、小将棋なのか大将棋なのかは何も言えないでした。大将棋という記述は台記のみですが、この時代の公卿は大将棋だろうという思い込みがあったものですから(下にも関連の記述いたします)。
2点目の家臣と指すという部分ですが、この点も確かに、紹介の文献では、家臣と指すという箇所の引用はなく、家臣同士が指すという箇所の引用ばかりでした。ただ、P32に、「また一方で、自分の家礼と将棋を指したり、あるいは将棋を指させたりということも見られなくなった・・」という記述、P33に、「主人が将棋を指す例もあるが、その時の対局相手は自分の家臣であり、他家の者と指すということはなかった・・・」とあり、これらが頭に残っていたせいかと思います。
長さんへ
同意見です。明月記のこの箇所ですが、将棋と書いてあっても、単純な小将棋では文脈上、成立しない感じです。また、公卿の将棋=大将棋(または摩訶大将棋)の別の根拠として、普通唱導集の小将棋指し、大将棋指し(大将棋以前の大将棋)のランクが激しく低いということがあります。博打打ちよりも下で、上から順に、文士、全経博士、紀典博士、武士、随身(昔のSP)、歌人、、、以下続き、56番目です。日記を書いている公卿はたぶん1番目の文士のはずで、別の将棋を指していた可能性が高いかと思っています。