高松への出張の途中、徳島県埋蔵文化財センターに寄ってきました。11)の投稿の奔獏かもの駒についておうかがいするためです。突然の訪問でしたのにいろいろと教えていただきました。問題の駒の可視光・赤外光の写真も見せていただきました。表も裏もはっきり見ることができました。ありがとうございました!
Webでは、たとえば、次のサイトに写真があります(西日本新聞)。
http://qnet.nishinippon.co.jp/shogi/20090313/20090313_0001.shtml
はっきりした写真であらためて見ますと、1文字目の「本」の字は奔と見ていいように思います。2文字目の「横」の字ですが、次の2点に注目です。上図にそのだいたいの感じを書いてみました。左側の字が「横」とみなされている字です。
1)木偏と思われている部首についてですが、木の右ななめ下にのびていく線が、実はありません。一見すると木偏に見えてしまいますが、線の数では、むしろ獣偏であり、つまり獏の部首です。
2)右側の真ん中の部分ですが、「横」の字だとしますと、ここは「由」という形がはいるはずです。ところが、由の真ん中の線は駒の割れ目がそう見えているだけなのではないでしょうか。真ん中の線はないように見えます。
駒の裏ですが、無地とみてよさそうです。ですので、大大将棋の水牛(裏が奔獏)、泰将棋の奔獏(裏は金将)の可能性はなくなりました。大大将棋の奔獏という選択肢だけが残ります。
コメントをお書きください
溝口和彦 (日曜日, 15 4月 2012 19:05)
ご存じの方が多いので省略されているのかもしれませんが、
『雜藝叢書第一』p211に次の記載があります。
「大象棋已上無上象棋にいたり、人しる事すくなし、またいまだ印本の書ありて流行することをきかず、余たま~一巻を得てこれを見るに、傳寫の誤すくなからず、或は古鵄を右鵄につくり、あるひは奔獏を奔横に誤るの類なり、…」
定説の奔横=奔王説より、奔横≒奔獏(誤写)説の方が文献的には正しいということになります。
出土品の年代が問題だと思います。
増川先生の2007年12月1日の遊戯史学会の発表「中将棋の歴史」では、「14世紀初めには中将棋は未だ考案されていなかった。」「14世紀中頃に考案されていたと考えられるが、14世紀の公家の日記には遊戯例が記されていない。」とあります。
「普通唱導集大将棋」→「中将棋」→「大将棋」→「摩訶大将棋」→「大大将棋」という私の考えでは、奔獏(奔横)の駒は14世紀末か15世紀初以降にしか存在しないはずです。
困りました。
溝口和彦 (日曜日, 15 4月 2012 22:38)
自己レスになります。すみません。
11>で紹介済みでした。
T_T (月曜日, 16 4月 2012 01:16)
同じ場所(ごく自然な考え方では京都だと思いますが)で将棋の創作がなされていたとしますと、中将棋の成立はかなり遅い可能性がでてきますが、別の場所で、2~3とおりの流れで発展していったと考えますと、遅くはない可能性もあると思います。京都ではない別の場所の第一候補として鎌倉が有力かと考えています。古文書の新発見をのんびり待つしかありません。
11)の投稿に書きました、本横と書いてあった古文書が江戸時代にはまだあったということになります。その古文書も、横の字ではなく、獏の字の書き間違いの、横でも漠でもない字だったかも知れません。
不思議に思いますのは、その古文書の書き間違いと、鎌倉時代の駒の書き間違えの一致です。もし、書き間違いのあるその古文書が、鎌倉時代前半にすでにあったとしますと、その古文書を見て、駒の字を書けば間違うわけですが、そんなことあるでしょうか。
長さん (火曜日, 17 4月 2012 09:39)
将棋の出土駒は、現物と写真とで、受ける感触が相当違う事があります。
従って、駒数多数将棋の研究が進んでいない事、その希少な分野の研究者で
有る事を、学芸員さん等に良く伝えた上で、わざわざ足を運んで、現地へ
行った場合は、是非現物を見せてもらえるよう、良く御願いすべきと考え
ます。この記事については、現物を見てない当方は、保留の立場をとるべき
とみました。