53)土御門天皇と日蓮:摩訶大将棋に関連して

摩訶大将棋と仏教との関連については、これまでに2件の投稿をしています。
投稿35)仏教を表現したボードゲーム:摩訶大将棋
投稿52)妙法蓮華経と摩訶大将棋


当初は、漠然と仏教との関連を思っていましたが、実はもっと限定的で、妙法蓮華経と関連する可能性が大きいようです。つまり、日蓮宗と言っていいのではないかと思うようになってきました。


仮に日蓮宗が起源だとしますと、摩訶大将棋の成立の時期は、最も早くて、1253年(日蓮宗の開宗の年)です。としますと、台記にある大将棋(1142年)、明月記に記載されている将棋(1201年:たぶん、大将棋のこと)は、どちらも摩訶大将棋ではないことが確定します。


では、日蓮宗の誰が摩訶大将棋を創案したかですが、もちろん、この件難問です。しかし、手がかりはありますので、また後日書きます。本稿では、まず日蓮本人が摩訶大将棋のクリエイターであった可能性を少し考えてみたいと思います。


はじめに、書いて置かねばなりません。阿波の国、川西遺跡で出土した、奔獏と思われる駒のことです。関連する内容は、投稿11)、投稿19)、投稿20)と3回にわたり書いています。個人的には、この出土駒が奔獏であり、阿波に流されていた土御門天皇により持ち込まれたものであり、阿波の国では大大将棋が指されていたということを信じ切っています(さして根拠なくですが)。


この仮説でいきますと、土御門天皇の崩御は1231年ですので、大大将棋の成立は最も遅くて1231年です。つまり、大大将棋の成立(~1231年)が、摩訶大将棋の成立(1253年~)よりも早かったということになってしまいます。本ブログは、ブログの一番始めに書きましたとおり、摩訶大将棋が大大将棋よりも早くに成立したということを知ったのがきっかけでした。今またその原点にもどってきました。


奔獏も仮説、日蓮宗のことも仮説にすぎません。ただ、しばらくは、このふたつの仮説を正しいものとして、本ブログを進めていきます。ですので、摩訶大将棋と大大将棋の成立順は再度検証しないといけません。なぜ摩訶大将棋が早くに成立したと、そう考えたのかを思い返してみなければ(この件、後日に)。大大将棋の方が早くに成立したという可能性はあるのでしょうか。


以下、大大将棋が摩訶大将棋よりも前に成立していたとします。ここで、突然ですが、日蓮が土御門天皇の落胤であったとの説を考えてみたいと思います(そういう説があります)。理由はまだ調べていませんが、Webを見る限り、説があることは確かなようです。1231年(土御門天皇崩御)、日蓮は9才です。まだ阿波(あわ)の国に暮らしていたのか、すでに安房(あわ)の国(日蓮誕生の地と言われているのが安房の国です)に移っていたのかはわかりません。土御門天皇が大大将棋をしている風景、それが子供だった日蓮の中にあったのかどうか。もしくは、大大将棋ではない、プレ摩訶大将棋ともいうべき、17マスの大型将棋があったのかも知れません。そういう可能性はあるでしょうか。


日蓮が摩訶大将棋のクリエイターだとした場合、いきなり摩訶大将棋を創案したというのは考えにくく、少なくとも、プレ摩訶大将棋に親しんでいなければなりません。いつ親しんだのか。青年期以降だとすると、日蓮の修業期間のことを考えるとむずかしいでしょう。それはまだ小さな子供の頃だったのではないでしょうか。


本稿、結論を急ぎたいと思います。鶴岡八幡宮で出土の鳳凰の駒ですが、これは摩訶大将棋の駒である可能性の高い駒です。その駒の字ですが、これが、日蓮の字に似ているとすると、どうでしょうか。日蓮の書いた手紙の字はさっさっと書いていますので駒の字と比べることはできませんが、立正安国論の字はきちんと書かれた字です。出土駒の鳳凰の字と、日蓮直筆の立正安国論を比べてみたいと思います。


立正安国論の直筆全編が書籍になっているのかどうかまだ調べていませんが、この結果、後日に投稿します。

 

コメントをお書きください

コメント: 3
  • #1

    長さん (木曜日, 25 4月 2013 09:00)

    鶴岡八幡宮の鳳凰駒の作者に、こだわっておられる理由が不明です。
    日蓮が同じ種類のゲームをしたとして、彼の作った駒が、大量に
    当時はあったはずの、摩訶大大将棋の駒群を押しのけ、何で
    鶴岡八幡宮から、出土しなければならないのでしょうか? 
    身延山あたりから、出土するのなら、まだ判りますが・・

  • #2

    T_T (木曜日, 25 4月 2013 11:13)


    長さんへ
    コメントありがとうございます!

    何しろ雲をつかむような話です。古文書もなくなんにもなく、あるのは、鶴岡八幡宮で出土した鳳凰の駒と、日蓮の直筆だけ。駒の字と日蓮の字がそっくりなら、そこではじめて、そういう仮説もあり得るかな程度です。

    日蓮が摩訶大将棋のクリエイターである可能性(荒唐無稽な可能性)をさぐろうとして、もちろんそんなことは探りようもなく、ただ、確実なものが2つ、鎌倉時代の摩訶大将棋の駒と日蓮の書いた文字で、まずこの2つを比べてみようというのは自然な成り行きでは。駒の作者にこだわっているわけではありません。

  • #3

    大橋新也 (水曜日, 12 5月 2021 12:08)

    どなたのご紹介も得ずに、突然この欄に書き込まさせて戴き、ご無礼の段、平に御赦しください。私は、日蓮宗の信者を父として生まれました。現在満90歳と六か月を経過して居ります。米寿を過ぎた頃から、日蓮は、土御門天皇の御落胤ではなかろうかと言う疑問を持ち始めました。最初は、かかる事などどうでもよいと思っていましたが、最近は、どうしても、ちゃんと見極めたいと言う気持ちで一杯です。安房小湊の誕生寺にある日蓮の幼少時代のお姿の銅像から推しても、やはり、そんじょそこいらの漁師の子ではないような気がしてなりません。日蓮が常に、ご両親即ち養父母の安否を気になさっておられたことは、日蓮の御遺文集から推してもよくわかります。略毎日のようにお手紙を認めて居られました。話は山のようになりますので、本日はここまでとさせていただきますが、この先も、時折ご連絡させていただくことをお許し下されたく存じます。また、世には、数多の出家僧が居りますが、日蓮ほど、度重なる身の危険を感じられたお方は皆無であることも、やはり私の心にひつかかるものを感じます。不一。 2021_05_12