74)象棊纂圖部類抄:いくつかの疑問点

本ブログにて一番信頼を置いている古文書(写本)は象棊纂圖部類抄(1592年)なのですが、個人的には、まだいくつかの疑問点があり、解釈が果たして正しいのかどうかずっとわかっていません。古文書に詳しい方に教えていただきたく思っています。現状、以下の解釈を取っています。疑問点も合わせて書きます。


1:この写本には、2つの奥書がありますので、2つの文献を写本したものと見ていいでしょうか。
 

写本の元になったのは、
前半:曼殊院宮が所持されていた本(これも写本:1443年に写本されたもの)
後半:庚寅の年(1590年)に求め出た本


前半部は、小将棋、中将棋、大将棋、大大将棋、摩訶大将棋の順に書かれています。
奥書より、1592年4月下旬(天正壬辰清和下澣)が写本の時期です。


後半部は、1)泰将棋、2)駒の行度その他、3)泰将棋の略頌となっていますが、奥書より、この部分も写本した時期は1592年4月下旬です。


ところで、上記1)と2)は、行然和尚の本を写本させたという部分になります。3)の略頌は、その最後に1590年4月中旬(天正庚寅清和中旬:象棊纂圖部類抄が書かれた2年前)という時期と、兼成の名前が書かれています。時期に注目すると、写本元の本の中に、兼成の歌(略頌)が入っていたということになります。兼成が作った歌なのか、兼成がその歌を収集したのかはわかりませんが。


当初は、行然和尚の本から1)と2)の部分を写本し、3)の部分は、写本でなく、兼成自身の記述と思っていました。しかし、よく読みますと、1)と2)については、「令恩借写之」と書かれていますので、恩借し写させた、ということになり、この文章は兼成が書いたものではありません。前半部と同様、原本も写本であり、その本の中にこの記述があったということになります。3)の部分も、時期の問題があり、前述したとおり、1592年に兼成が書いたわけでなく、写本元に兼成の歌があったと解釈しています。

 

2:右図去庚寅年求出之本重而無加之聊
という箇所がありますが、最後の漢字は、聊、でいいでしょうか。
  

この記述は、3)の略頌の後、2つ目の奥書に相当する部分の冒頭にあります。・・本重而無加之聊、・・の本は重く加えることなし(いささかも加えることなし、という強調としての聊)と読みました。


借りた本の記述は重要なので、何も書き加えることはしなかった、というわけです。では、逆に、何を書き加えたかったのかということなのですが、それは、ひとつは、泰将棋の初期配置、最下段中央の「自在王」の駒のことでしょう。略頌では、ここは玉将ですから、行然和尚の本とは違っています。


その後、「今度以・・・」と続きます。このたび、関白秀次公より、大大将棋と泰将棋と、2つを命ぜられたと。それで、「携此図」、この図を携えてとありますが、目録として泰将棋の図が必要だったのでしょう。泰将棋の図面は曼殊院宮の本にはありませんので、庚寅(1590年)に借りた本の写しが必要でした。


水無瀬兼成の将棊馬日記では、実際、1592年に大大将棋と泰将棋を各1面づつ送り届けていることが確認できているそうです(私はまだ将棊馬日記を見ていませんが)。果たして、兼成は、自在王か玉将か、どちらの駒を選んだのでしょう。


奥書の後にも、さらに、文章が続き、翌年2月(翌年癸巳夾鐘:1593年)に、秀次に大型将棋7面を渡した旨の記載があります。将棊馬日記にも関連する記述があるようですので、是非、原本にて確認したいと思っています。7面のうち、摩訶大将棋2面、泰将棋2面ですが、大将棋、大大将棋、中将棋は1面となっています。はじめの1592年に、大大将棋と泰将棋を求めたということから、秀次は摩訶大将棋まではすでに知っていたのかも知れません。摩訶大将棋の駒も持っていたのではないでしょうか。

 

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コメント: 6
  • #1

    長さん (月曜日, 06 1月 2014 13:47)

    水無瀬兼成は、泰将棋の成りを、「駒を取ると強制成り」にしていたかどうか(鉤行は金将に弱体化)と、「毒蛇の成りを鉤行にしていた」かどうかにより、両方YESなら、「自在(天)王タイプの泰将棋」で良い、と思っていたのではないかと私は思います。自在天王位置に玉将を置く将棋は、天竺大将棋と同じで、駒がばらつかないうちに終わってしまいやすいんですね。中央筋に攻撃を集中させれば良いので。他方、鉤行が終盤まで残らない自在王を詰む泰将棋は、こんどは防御力が強すぎて、獅子駒位が少数残っても、なかなか詰まない、将棋として難が有るゲームになりやすいのでは。「自在王と鉤行成り毒蛇」に、バランスよくルール調節するアイディアが、水無瀬兼成に有りさえすれば、ある程度いろいろな将棋に詳しい彼は、玉位置には自在王を置くタイプを選んだのではないかと私は思いますが。実際はどうだったのでしょうね。

  • #2

    T_T (月曜日, 06 1月 2014 22:34)

    コメントありがとうございます!

    あくまで個人的な思い込みですが。
    兼成は、延年の行事として泰将棋を見ていただろうと思いますので(象棊纂圖部類抄の記述どおりに)、たぶん、泰将棋の駒の行度や成り駒は、あまり関心がなかったのでないでしょうか。駒の種類が多くなれば、駒の行度の種類も多くなります。表の駒だけで、93種類ですので、93の行度が必要なわけで、ボードゲームとしては、現実的ではありません(デジタルゲームとしてなら成立するでしょう)。

    成り駒についても、摩訶大将棋と大大将棋で違っているわけですが、この2つから共通の駒を持ってきています。奔駒になるのかどうかという問題もあります。新しい駒も15種類ありますので、これらの成り駒選びの問題もあります。これらを考慮すれば、すべて不成りにするという考え方もあり得ます。

    象棊纂圖部類抄に書かれている行度(朱色の点と線)も、参考にはできません。もちろん、江戸時代の古文書についても同じです。いろいろ考えあわせれば、泰将棋の復刻は、現時点では、全く無理ということになりそうです。

    それと、泰将棋は、玉将の位置に自在王を置けば、ボードゲームとしては、それなりに可能ですが、自在王のゲームになってしまいます(自在王が浮き駒を1個づつ取っていくゲーム)。

  • #3

    長さん (火曜日, 07 1月 2014 11:25)

    自在王ゲームには、ならないですよ。序中盤はたいてい▲自在王(浮きゴマの位置)、△同自在王ですので、先手が禁手反則負け(自殺手)です。「▲自在王(浮きゴマの位置)」という手は、この場合、先手に太子でも出来ていなければ、容易には指せませんよ。

  • #4

    長さん (火曜日, 07 1月 2014 12:48)

    ↑1行目で「浮きゴマの位置」は、「自在王以外の繋ぎのない、一見すると浮きゴマの位置」に訂正。2行目で、「(自殺手)」は、「(そもそも、繋はある)」の間違い。更に3行目で先手には太子はもともとあるので「自在王の動かし方の規則を、『とられる手』から『負けてしまう手』に変更すると容易に指せ」ますから、この1センテンスは意味不明なので削除。
    つまりおっしゃるように「浮き駒を取って行くゲーム」のはずなのですが、相手の自在王で繋ぎがほぼ有るので、そんな手を指すチャンスが、現実には、ほとんど無いゲームになると思います。

  • #5

    T_T (火曜日, 07 1月 2014 20:29)

    コメントありがとうございます!

    すいません、自在王ゲームの件、言葉不足でした。自在王で自在王をとるのはなし、というルールでの変則将棋のことを言ったつもりでした。読みミスをしたら負けという頭の体操的ゲームとなります。すべての駒の行度をきちんと把握していないといけませんし、駒をばらけさせた後は、広い範囲を見張る注意力の勝負となります。まあ、将棋ではありません。今は将棋というと摩訶大将棋一本となってしまってます。

  • #6

    長さん (水曜日, 08 1月 2014 09:13)

    了解しました。しかし御言葉ですが、江戸時代の文献に記載の「自在王泰将棋(普通ルール)」は結構面白いと思いますよ。只取りを見逃さなくても、直前に使わなかった繋駒の切れた自在王が、味方の自在王で取られ自在王の無くなった、残り駒数の多い、繋がれた太子一枚だけの相手を舐めて、温泉気分で指すと、地道にお供の繋駒に伴われながら、味方の離れ小駒を手数をかけながらも喰って、鉤行に成りこんだ成毒蛇で、味方の自在王が突然頓死、その後、味方太子は容易に詰まれて逆転負けの一局も、駒数大差だと有りえますからね。よって「自在王は自在王で取れない」とか「自在王が無くなったら負け」という変則ルールには、この場合はしない方が良いのではと、一応私は考えていますが。