前稿91)の続きで、将棋伝来の仮説についてのあれこれです。
将棋の伝来を議論するとき、マックルックはよく話題になります。ところで、マックルックが、タイの将棋という呼び方になるのはなぜなのでしょう。この点よくわかりません。伝来のことを考えているのだから、時代は10世紀前後、この頃の東南アジアは、今のタイの地域ではなく、カンボジアの地域が栄えていたわけで、そこにクメール王朝があって、アンコール遺跡があったわけです。とすれば、タイの将棋というよりも、カンボジアの将棋、またはクメール王朝の将棋という呼び方の方が合っています。現在のタイ、カンボジア、マレーシアの将棋はかなり似ているわけですが、これは、この3地域が往時のクメール王朝の一部だったためで、当然の結果とも言えます。マックルックの原型は、クメール王朝にあった可能性が高いのではないでしょうか。
アンコールワットの壁画には、チェスを思わせるレリーフがいくつもありますが、Webを探す限りでは、最大で7つの駒が並んでいます。横向きなので、何とも言えませんが、もし8マスなら8個並べたのも残っていてもいいのにとは思います。ともあれ、このように、古代カンボジア、クメール王朝には、チェスかチャトランガのようなものは存在していました。
本稿では、原初のマックルックが日本に伝来した可能性について考えてみます。想像の話しもいろいろできるわけですが、史実や古文書の記述と少しは関連していないと、議論になりませんし、説としての面白さもなくなります。ここは、解明:将棋伝来の『謎』の156ページでも取り上げられている、本朝俗諺志をスタートにします。松岡先生言うところの、火のないところに煙は立たない的な考え方は十分納得できます。説を立てる上で、面白いアプローチだと思いました。
吉備真備が囲碁(遣唐使1回目)と将棋(遣唐使2回目)を伝えたという説は、囲碁の方がそうではないということで、この説に信頼性なしと決めつけてしまうのが通説ですが、そう決めてしまうこともないだろうということを気づかされました。囲碁は隋書倭国伝にも出てきますので、すでに伝来していたことは確かですが、しかし、吉備真備は囲碁のことをきっといろいろ伝えた、これも事実なのでしょう。そして、将棋の方も、ある程度の真実を含んでいるかも知れないという視点で考えてみます。
もし吉備真備が将棋を伝えたとすれば、遣唐使1回目の方です。この後まだ長くなりそうですので、明日以降に書きます。
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長さん (火曜日, 03 6月 2014 09:20)
「シャンチーは、かなり前から日本では知られていた」と、私も思いますね。漢方薬が平安時代から日本に有るのに、日本では誰もシャンチー知らないというのも変ですから。 流行らなかっただけなんじゃないんですかね。ただ、シャンチーをもとに、大江匡房が原始平安小将棋を作ったとすると、クメール王国の将棋に、それが似ているというのも、偶然としては何かとても変ですね。何で大江匡房は「九宮から出られない駒」という大発明をわざわざ排除し、本来どっちでもいいのに、升目の中に駒を置くようにしたんでしょうかねぇ~。
T_T (火曜日, 03 6月 2014 23:59)
コメントありがとうございます。
しかし、私の場合、シャンチーについては全く想定していません。
思い描いていますのは、原初のマックルックが直接、伝来したというストーリーです。たぶん、そのときには、まだシャンチーはできていなかったのではないでしょうか。
この件についての次稿、今日、寝る前にできれば投稿します。明日の夜になるかも知れませんが。かなり思い切ったストーリーなわけですが、もしかして当たっているかも知れません。
mizo (木曜日, 05 6月 2014 08:26)
展開の速さにとまどっています。
①マックルックはタイの将棋
現在タイで指されているので、タイの将棋といってよいとおもいます。カンボジアでは指されていません。
また、将棋は文化ですから、ある地域に現在あるから、過去にそこにいた民族の文化だとは言えないと思います。特にクメール人は陸地の民で、将棋の伝播で重要視しなければいけない海洋民族ではないと思います。
常識的に考えれば、シュリーヴィジャヤなどの海上交易国家がインドと東南アジアをつなぎ、東南アジアと中国沿岸をつないだと思われます。
②原初のマックルックが直接日本へ伝来
日本での出土がなく、立体駒であるマックルックがいつどのようにして将棋型になったのかの合理的説明を欠いていると思います。
「玄怪録」の内容に日本の将棋を連想させる記述があることから、中国で、原初のマックルックから日本の将棋の原型が生まれ、それが日本に伝わったのではないでしょうか。東南アジアと日本の間に、この時期直接盛んな交易があったとは思われません。東南アジアと中国であり、中国と日本です。
T_T (木曜日, 05 6月 2014 22:24)
コメントありがとうございます。
マックルックについてですが、事実確認お願いできませんでしょうか。
私の手元の本ですと、カンボジアとタイでは、ほぼ同じ将棋が指されていると書いてあります。
Thai Chess & Cambodian Chess (Makruk & Ouk Chatrang):Gary Gifford 著
古代カンボジアにあったのが、マックルックかどうかをまだ特定できていませんが、型がそれほど変わることもないでしょうから、少なくともマックルックと類似した原初マックルックのような将棋だったと思われます。
それと、タイの地域は、8世紀当時はまだ栄えていませんでした。やはり、カンボジアの将棋と呼んだ方が適当ではないかと思うのですが。。。
なお、今回の一連のシナリオでは、通常の人的交流による将棋の伝来については想定せず、遣唐使による可能性のみを考えています。この点で不備や思い違いありましたら是非ご指摘お願いします。原初マックルックが、長安において、直接、遣唐使の手に渡ったということを想定しており、長安の町中でマックルックが適度に広く指されていたのを、遣唐使が知ったということではありません。こういう意味で、直接の伝来と表現しました。
立体駒の問題については、まだ先の話となります。出土も文献もありませんので、この件、合理的な説明は誰もできません。説明が無理な部分について、説明がないから納得できない、と言われましても、それは、そのとおりです、ということになります。
今回のシナリオ、伝来経路の問題はなく、「長安で出会った」ということだけを問題にしています。遣唐使が、ちょうど朝貢にきていたクメール人の大使と、お互いの国から遠く離れた長安で出会った。たった一度、1年だけそういう年があったわけです。もし、出会わなかったら、日本もシャンチーだったかも知れません。シャンチーの定着よりも、平安将棋の成立が早かったという点は重要だと思います。従来の説では、成立が遅すぎではないかと思っています。
T_T (木曜日, 05 6月 2014 22:29)
上のコメント#4の補足です。
本稿92)と、コメント#4だけを読みますと、たぶん全然わからない文章だと思います。次の投稿93)、94)も見ていただけますでしょうか。
mizo (金曜日, 06 6月 2014 02:32)
マックルックについて
「タイとカンボジアでは、ほぼ同じ将棋が指されています。」というお考えの通りです。憶測で書き間違えました。申し訳ありません。ただ、名称は
Thai Chess=Makruk
Cambodian Chess=Ouk Chatrang
だと思います。