摩訶大将棋を復刻する上で、大型将棋の成立順は非常に重要です。古いか新しいかという問題ではなく、成立の順序がルールを決める際の手がかりになるため、はっきりさせておく必要があります。これまでの投稿でも、いくつかの観点から議論を重ねてきました。まだいくつか不明な点、残っているのですが、現況をひとまず、本投稿にてまとめておきたいと思います。
本稿の結論、摩訶大将棋の成立は、大将棋の成立よりも早かった、ということです。この結論は、通説とは違うわけですが、以下に列挙する理由から、納得していただける方も多いのでは、と思っています。不足の点は、コメント欄にて、または、新たな投稿にて補足しますので、いろいろなご指摘いただけると有難いです。なお、ここで問題にしている大将棋は、象棊纂圖部類抄の大将棋です(二中歴のものではありません)。
1)摩訶大将棋の酔象の成りが王子である点(投稿83に詳細)
王子は太子よりも古い時代の言葉です。大将棋の酔象の成りは太子ですので、摩訶大将棋の方が古い時代にできたことになります。
2)摩訶大将棋には大将棋のすべての駒が含まれている(投稿79に詳細)
仮に、大将棋から摩訶大将棋ができたとしましょう。将棋を発展させようとするときに、元になる将棋の駒のすべてをそのまま残すかどうか(気にいらない駒もあるでしょう)、そして、弱い駒を追加するかどうか(たとえば、土将のような駒)、という2点が気になります。摩訶大将棋の駒を間引いて、大将棋ができたと考えると、これらの問題がなくなります。
3)摩訶大将棋には十二支のすべてが含まれている(本稿が初出)
この項、後日、別投稿しますが、将棋が陰陽道であったことの名残りでしょうか。十二支は、以下の駒と考えています。
老鼠・猛牛・盲虎・猫叉・臥龍・蟠蛇・驢馬・盲熊・古猿・淮鶏・悪狼・嗔猪
「未」のみ不明なのですが、ここに盲熊を入れました(調査中です)。「卯」は東南アジア由来ですが、猫で問題なし、「戌」も狼で問題なしと考えています。
さて、大将棋には、このうち、猛牛・盲虎・猫叉・悪狼・嗔猪の5駒があります。大将棋から摩訶大将棋ができたとする場合、その後、7駒を追加して十二支を完成させたことになります。将棋が陰陽道起源であるとした場合、先に十二支があった方が自然でしょう。ここでも、やはり、摩訶大将棋の駒を間引いて大将棋ができたという結論になります。
4)象棋百番奇巧図式序にある大江匡房の言葉
大江匡房が取り除いたという酔象と猛豹なのですが、酔象は玉将の上に、猛豹は金将の上にあったということです。酔象の方は問題ありませんが、猛豹が金将の上にある将棋は摩訶大将棋だけで、大将棋も中将棋もそうではありません。大江匡房の時代の言であり、金将の上の猛豹という形が古式だろうと考えられます。摩訶大将棋はより古い将棋なのではないでしょうか。
5)奔王の動き(投稿73に詳細)
奔駒の考え方は摩訶大将棋が起源です。奔王=奔玉だとすれば、摩訶大将棋以前には、奔王の駒は存在していません。奔王を使う大将棋は、奔駒ルールを編み出した摩訶大将棋の後ではないでしょうか。
6)師子と狛犬
鎌倉時代(もっと古いかも知れませんが、まだきちんと調べていません)、師子と狛犬はいつもペアで登場します。つまり、師子と狛犬の両方が並ぶ摩訶大将棋が本来の形であり、師子だけを含む大将棋の不自然さがずっと気になっていました。この点から考えるに、大将棋は、摩訶大将棋から狛犬が間引かれてできたのではないでしょうか。盤を小さくしたことと連動して、3目踊りを全部なくしたのではと考えています。
ひとまず、6つ並べてみました。15マスの大将棋から19マスの摩訶大将棋が作られたとする考え方は、直観的には自然な発展なわけですが、いろいろ考えてみますと、その結論は全くの逆になります。どの観点で考えても、摩訶大将棋が古いということになるのです。皆様、議論お願いいたします。大将棋の方がやはり古いでしょう、という考え方が、上記6点以外の観点でありますでしょうか。または、上記6点に考え方の不備ありますでしょうか。こういう話は、学会でもなかなかできません。
実のところ、大将棋と摩訶大将棋の成立順は、ルール策定にはほとんど影響しません。ルール伝承が確かである中将棋の方との成立順が問題なのですが、大将棋の方が新しいと確認されれば、中将棋も、摩訶大将棋より新しいことが自明となります。
コメントをお書きください
長さん (金曜日, 11 7月 2014 09:11)
私は、後期大将棋と摩訶大大将棋の表駒と、その配列を構想した人物は、戦国時代頃の同一人物を疑っています。配列のパターンが、いっしょでかつ、出所文献が同じかつ限られていて、その疑いを否定できないからです。
その後江戸時代の文献に書かれて固定した時期は、摩訶大大将棋の方が、歴代の指す人間数が少なかったため、改変が少なくて、後記大将棋より、摩訶大大将棋の方が、安土桃山時代頃に、早く収斂したと見ます。ただし、麒麟と鳳凰の成りに関して、聆涛閣(れいとうかく)集古帖のパターンと、大龍・金翅のパターンに分かれたのは、(摩訶大将棋と摩訶大大将棋に分裂したのは)江戸時代に入ってからかもしれないと思います。それに対し、後期大将棋は、中将棋の指し手が、後々まで興味をもっていたことがかえって災いし、中将棋の成りを援用するか否か等で、江戸時代に援用の方向で変化しており、今も振れが、完全に止まっていない状態だと認識しています。
さてそれでは冒頭の同一人物が、どちらの初期配列原型を、先に作ったかですが、ひょっとするとここで書いてある通り、摩訶大大将棋の方が、後期大将棋より、彼の頭の中では構想が先行していた可能性も、充分に有りえるのではないかと思います。
以上がざっとした、私の立ち位置です。
なお、鎌倉時代草創期に成立した平安大将棋と、私に言わせると戦国時代末期の後期大将棋の間には、中間系が、少なくとも三種以上は切れ目なく存在し、鎌倉時代後期の普通唱導集大将棋は、たぶん13×13升目の、そのうちの一中間種だと、私は思います。
他方摩訶大将棋とは不連続な、19×19升目の将棋が、平安時代後期から室町時代までの間に、記録に残らず、全く流行らなかったものの、中国文化の流入の影響で何種か間違いなく存在し、たぶん一番最初の「平安広将棋」とも称すべき、19×19升目の将棋は、平安大将棋(13×13)よりも前の、文字通り平安時代に有ったはずだと思います。なお、(仮説)平安広将棋は仔細全く不明で、ここで述べられている摩訶大将棋とは、ほとんど初期配列や駒の数に関して繋がりが無い物であり、ひょっとすると江戸時代の荻生徂徠の広将棋の方が、それに類似である可能性すらあると思います。
mizo (金曜日, 11 7月 2014 23:54)
大将棋→摩訶大将棋(定説)の理由、および高見先生のご意見への疑問です。
0)名称より
先に「大将棋」があり、それと区別するために後からできた方に文字が追加され、「摩訶大将棋」という名称が生まれた方が自然です。
最初に複雑な「摩訶大将棋」という名称があったというのは不自然と思われます。
1)摩訶大将棋の酔象の成りが王子である点
成り先の名称の「王子」と「太子」の用例の出現頻度の差を根拠とされていますが、差がそれほど大きいとは思われません。また、名称変化の合理的な説明がないように思います。
私は「太子」は「玉将」の代わりになるが、摩訶大将棋のように駒数が多くなると「太子」になり勝負がつかないまま延々と続くのを嫌い、動きは「玉将」だが代わりを務めることができないという駒になり、名称を「王子」に変えたのではと考えています。
2)摩訶大将棋には大将棋のすべての駒が含まれている
私には、これこそ大将棋から摩訶大将棋が創られた証拠と思えます。「将棋を発展させようとするときに、元になる将棋の駒のすべてをそのまま残すかどうか(気にいらない駒もあるでしょう)」私は、残す方が自然だと思います。(これは水掛け論ですね)
「そして、弱い駒を追加するかどうか(たとえば、土将のような駒)」というご意見には、逆に強い駒をなぜ捨てたのでしょうと言いたいと思います。弱い駒は数合わせに必要だったのだと思います。
3)摩訶大将棋には十二支のすべてが含まれている
十二支の動物が含まれているとは言えないと思います。「卯」ウサギと「未」ヒツジです。「戌」も怪しいですが、狼はイヌ科ですから認めるとしてもです。 老鼠・猛牛・盲虎・「猫叉」?・臥龍・蟠蛇・驢馬・「盲熊」?・古猿・淮鶏・悪狼・嗔猪 の名称には統一感がありません。能力的にも踊り駒と歩き駒が混じり体系的ではありません。
猛豹などの十二支にない動物名の駒の存在を考えると、将棋と十二支の動物との関係は深読みのしすぎだと思います。
4)象棋百番奇巧図式序にある大江匡房の言葉
「猛豹は金将の上にあった」のは、小将棋に中将棋の駒を取り入れる際、飛車(竜王)角行(竜馬)のほかに、金将(飛車成り)の対である猛豹(角行成り)を取り入れたパターンがあったからと思われます。そして試行錯誤の結果、猛豹と酔象は取り除かれ、現代の本将棋が完成しました。その際、猛豹を金将の上に置くことは対の関係ですから当然と思われます。
5)奔王の動き
奔駒の考え方は摩訶大将棋が起源です。この素晴らしいアイデアが先行したとすると、後の大将棋でそれがなくなったことになります。不自然だと思います。
6)師子と狛犬
「師子と狛犬はいつもペアで登場します。」
←厳密にいうと、「狛犬」は「獅子」とともに使われる場合が多いということだと思います。「獅子」は単独でいろいろ使われます。獅子奮迅の活躍です。
T_T (日曜日, 13 7月 2014 22:40)
長さんへ(#1)
コメントありがとうございます!!
いろいろあるのですが、後日の投稿で、少しづつ反映していきたく思います。とり急ぎ、次の3点のみにて失礼いたします。
まず、大将棋と摩訶大将棋を同一の人物が作ったという可能性ですが、これは、ほぼゼロに近いだろうと思っています。その理由は、摩訶大将棋には、非常に強い陰陽道が現れており、大将棋ではそれが壊されているからです。この件、近日中に投稿いたします。
次に、摩訶大将棋の創案の時期の件、戦国時代頃と書かれていますが、これはどういうことでしょう。象棊纂圖部類抄からは、摩訶大将棋は、少なくとも1443年には、存在していますので、この点がよくわかりませんでした。摩訶大将棋の成立は、1443年よりもずっと遡り、1200年代の中頃だろうと推測しています(駒の名称、その時代に流通していた言葉、その他文献資料からの推定です)。
それと、(仮説)平安広将棋ですが、その可能性、大いにありますよね。荻生徂徠は、その古文書を持っていたかも知れません。ここのところ、まだまだ深いです。
T_T (日曜日, 13 7月 2014 23:21)
mizoさんへ(#2)
コメントありがとうございます!!
以下、とり急ぎ、項目別の短信にて失礼いたします。
0)名称の件、全く問題なしと考えています。象棊纂圖部類抄の写本部分では、大型将棋を博物学的にとらえているようですので、マス目の順に並べてから、その名前を後付けしたものと考えています。ですので、大将棋(15マス)、大大将棋(17マス)、摩訶大大将棋(19マス)となっているのでは。この件、mizoさんも納得されていると思っていましたが、やはり、古文書どおり、大大将棋や摩訶大大将棋が、成立当時の固有名称とお考えでしょうか。
1)王子vs太子の件、摩訶大将棋が先行したとする説明としては一番明解と考えています。出現頻度の結果は有意です。結果は、投稿83)のとおりで、1.8 --> 0.95 --> 0.55と時代が進むにつれ減少します。駒の名称が当時使われていた言葉と連動するという点、十分に合理的ではないでしょうか。まだ細部まできちんと見ていませんが、結果はさほど変わることはないだろうと考えています。
2)確かに水かけ論ですね。この件、多数決を取ってみないとわかりません。ただ、摩訶大将棋から大大将棋、泰将棋への発展が、ひとつの事例になるものと考えています。駒を追加していった場合は、投稿79)の右図のようになるのではと考えました。
3)十二支の件、陰陽道そのものです。ここのところ、将棋の歴史解明には、非常に重要であり、従来ここがおろそかにされていたと思います。この件、近々に投稿いたします。それと、卯は、猫で問題ありません(東南アジアでは卯が猫です)。
4)猛豹の件、私の感想のみで、説得力はゼロかもです。金将の上の猛豹、という記述が、たまたまなのでしょうか、摩訶大将棋に合致しています。これを古式と見るかどうかは、信じる信じないかの問題でした。この項、理由にしてはいけなかったですね。後日、もう少し、補強して再投稿します。
5)この項だけでは、結論は出ないかも知れません。そう思うか思わないかの問題で、他の理由で結果がはっきりしたときに、後付けしたいと思います。将棋を改変するのですから、成りを全面的に変更してもいいように私には思えます。でないと、中将棋でも奔駒が使われないといけません。
6)師子と狛犬は阿吽の像としての存在ですので、いつもペアなのではと思います。この件きちんと調べてみます。少なくとも、平安後期あたり以降は問題ないように思っています。阿吽の仁王像も同じで、一体だけの仁王像がないのと同じではと。書物の中で、一方の単語だけで登場することもあるかも知れませんが、実態としては、ペアだろうと考えます。師子が単独で登場する風景は、どういうものがありますでしょうか。
以上の件、まず、1)の王子と太子の件、3)の十二支の件、の2件に絞るのがよさそうに感じました。この2件、たぶん、崩れないのではと思います(たぶん、ですが)。本ブログでも、いろいろ間違いは書いていますので、100%とは言えませんが、その都度、修正しつつ進んで来ています。コメントいただきました範囲では、やはり、摩訶大将棋が大将棋に先行しているとの結論でいいのではないでしょうか。
mizo (月曜日, 14 7月 2014 05:04)
高見先生のご意見はよくわかりました。賛同というわけではありませんが…。研究の進展を期待いたします。
0)名称の件
「大大将棋や摩訶大大将棋が、成立当時の固有名称とお考えでしょうか」
←そう考えていたので、そうではないといわれると、闇の中になりますね。単純に大将棋とだけ呼ばれていた各地?各時期?のものに、整理のために名前を付けたとも、考えることはできますが…。
1)王子vs太子の件
「結果は、投稿83)のとおりで、1.8 --> 0.95 --> 0.55と時代が進むにつれ減少します。」
←あることばがほとんど使われなかったとすれば、論拠になりますが、両方使用されていた場合は、多少の使用頻度の差の影響は、ないように思われます。初めに決める際には、「太子」「王子」を比べたわけではなく、後継者としての意味が明らかな「太子」と命名され、次に別の類似語が探され後継者の意味が弱い「王子」が探されたと思います。(先生のお考えに啓発され、「王子」の命名理由が私なりにつかめました。ありがとうございます。)
2)水かけ論になる面があるので…。
3)十二支の件
「卯は、猫で問題ありません(東南アジアでは卯が猫です)。」
←日本ではウサギという文献しかないように思われますが…。
4)猛豹の件
「古式と見るかどうかは、信じる信じないかの問題」だと思います。
5)奔駒の問題
「そう思うか思わないかの問題」だと思います。
6)師子と狛犬
神社の前の「阿吽の像」は獅子と狛犬のペアです。しかし、獅子舞はどうでしょうか。中国では獅子はありますが、狛犬はないようです。
長さん (月曜日, 14 7月 2014 08:15)
摩訶大(大)将棋の成立は、1480年代以降なのではないかと、個人的には思います。象棊纂圖部類抄。1443年と記載されているようですが、個人的には怪しいとの解釈です。金剛・力士が相手の金剛・力士と切り合う将棋という点に、仏教の五戒に照らして、事の重大性は無いのかと。この将棋、やはり一向一揆が存在し、製作者が大方、より都の近くで、個別の寺同士が僧兵を使って勢力争いをしている姿を、いやというほど聞き及んでいた時代のものではないのでしょうかね。
T_T (火曜日, 15 7月 2014)
mizoさんへ(#5)
コメントありがとうございます!
大将棋が後か先かの件、摩訶大将棋の復刻にとっては、非常に重要な命題です。ですので、私はそう思う、私はそう思わない、という話しではなく、現存する古典資料からは、このように考えるのが一番妥当です、というところで話しがまとまればと思ってます。
ですので、本稿のように、自分の感想(裏付けのない思い込み)と古典資料からの類推を混ぜてしまったのはよくありませんでした。本稿では、1)、3)、6)だけを取り上げるべきだったと思ってます。
摩訶大将棋と大将棋の成立順は、確定まではできませんが、こう考えた方が妥当、その可能性が高い、という程度には結論がでる問題だと考えます。この点、将棋の伝来時期の議論とは違います。伝来時期は、現状の資料では、人それぞれ好き好きに考えて、結論決まらずで仕方ありません。
1)の王子と太子の件、再度詳しく投稿します。
3)の十二支の件、投稿102)として再投稿済みです。象棊纂圖部類抄の序文冒頭からは、十二支が駒になっていると考えざるを得ません。駒の名前だけを見ての推理ではありません。
6)で、獅子舞の件ですが、狛犬舞もあります。狛犬と師子は、やはり、いつもペアでないでしょうか。それと、将棋へのこの2駒の導入は、日本独自ですので、中国に狛犬がないことも問題ありません。
T_T (火曜日, 15 7月 2014 01:42)
長さんへ(#6)
コメントありがとうございます!
ご指摘のような考え方もあり得るとは思います。ただ、たとえば、1443年写本というのが怪しい、そうではなかったという可能性と、1443年は正しいという可能性と、どちらがより可能性大なのかという問題になります。その結論は100%までは確定しないとしても、1443年に写本があったのが妥当、ということで、ひとまずは、話しを進めていってもいいように思います。
ただし、この1443年の件については、摩訶大将棋の王子の駒のことがありますので、摩訶大将棋の15世紀での成立は、ほぼあり得ないのではないでしょうか。つまり、歴史物語を見ると、南北朝時代では、王子という言葉はほぼ出てきません。この件、後日投稿予定です。