147)二中歴の信頼性:仲人の駒をめぐって

まず、投稿140)の補足として、仲人の駒の動きの確認と、そのように結論する論拠をまとめておきたいと思います。仲人は、中将棋の駒ですから、動きは確定していますが、本稿は大将棋の仲人を問題にしています。そのあとで、二中歴のことを話題にします。


仲人の動き:前後左右に1目だけ歩く

仲人の動きをこのように結論した理由、および、参考とすべき事実は次のとおりです(4点あります)。


1)象棊纂圖部類抄には、前後に1目だけ歩く駒が2つあって、それは、仲人と土将である。象棊纂圖部類抄に記載される5種の将棋(実際に対局された可能性のある将棋:小将棋・中将棋・大将棋・大大将棋・摩訶大将棋=摩訶大大将棋)の中で、動きが同じ駒はこの2駒以外には存在しない。駒の名前が違えば、動きも違うと考えるのが妥当であり、仲人か土将か、どちらかの動きが間違って記載されたと考えるべきである。


2)中将棋の仲人は、前後に1目だけ動く。ところで、象棊纂圖部類抄の中将棋の注釈には、仲人が取り上げられており、そこには、大将棋と中将棋の仲人の動きが違っていたと解釈せざるを得ない記述がある(これについては、投稿116)と投稿120)をご参照下さい)。その動きの相違点は記述だけからは明らかではないが、仲人の注釈の冒頭に、次のように書かれている。


不行傍(かたわらに行かず)


あえてこのような注釈を付けたということは、仲人は、大将棋のルールでは、「かたわらに行く」ということを意味している。


3)象戯圖の大将棋の図面には、仲人の動きを示す朱色の点がついている。点は、前後左右につけられており、これは、上記2)で予想されたとおりである(なお、象戯圖の図面については、島本町教育委員会から冊子が発行されていますので、ご確認下さい。この冊子は、島本町歴史文化資料館にて入手可能だと思います)。


4)普通唱導集の大将棋に関する箇所の記述に、「仲人嗔猪之合腹」と書かれている。この記述の解釈については、いくつかの説が提案されているが、どれも決定的な説明ではない。ところが、仲人が横に動くとした場合、納得のいく解釈が可能となる。つまり、仲人、嗔猪ともに、横に動くことができ、かつ、ななめには行けないため、横に並ぶ(=腹を合わす)のが、最も適当な布陣となるからである。


以上の説明については、投稿116)と120)の部分も含め、後日、全体をきちんとまとめたく思いますが、上記の概略にても賛同いただけると思います。摩訶大将棋でも大将棋でも、歩兵がずらっと並ぶ前に、仲人だけが、単独で飛び出しているわけですから、仲人が、前と後ろにしか動けないというのは、何とも、不自由なルールなわけです。今までは、中将棋の仲人の動きをそのまま、伝えられた厳粛なルールとして受け入れていました。しかし、上記2)で書きましたとおり、仲人の動きは、大将棋をもとに中将棋が作られた際、変更されたものと思われます。ですので、中将棋の仲人と違う動きであっても何ら問題ありません。


大将棋や摩訶大将棋を指されている皆さん、どうぞ、前後だけでなく左右にも動く仲人で、一度対局をしてみていただけませんでしょうか。戦略が非常に大きく広がることが実感できるかと思います。そして、くどいようですが、このルール変更は、新しい将棋としてのルールの導入ではなく、摩訶大将棋の復刻に基づいたものであるという点もご理解下さい。


さて、本稿、ここからが本論となります。

まず、中将棋と大将棋(象棊纂圖部類抄の大将棋)の成立時期の問題ですが、これは、上記2)の解釈どおり、大将棋の方が早くに成立しています。この考え方は通説と同じです。ただ、通説の根拠はかなり希薄だと思いますので、仲人の動きに関する象棊纂圖部類抄の記述もその根拠に加えていいかも知れません。


次に、二中暦に記述されている大将棋の注人についてです。注人が、仲人へと進化したのかどうかは、まだ不明であり、仲人の方が早かった可能性もあります。この際、二中歴の編纂時期の問題が重要ですが、ここでは、ひとまず、一般的な考え方、13世紀ということで話しを進めます。としますと、摩訶大将棋や大将棋の成立時期よりも早いのかどうか、これもまだ不明でしょう。


二中暦の注人は、左右には動けません。駒の動きが、時代によって将棋によっていろいろに変わるという考え方もあるでしょうが、自然な考え方は、やはり、駒の動きは変わらないというものです。仮に、注人(二中暦)--> 仲人(象棊纂圖部類抄の大将棋)--> 仲人(中将棋)と進化したとした場合、駒の動きの変更が2回生じる点が難点です。


二中暦の大将棋は、中将棋の仲人ができた以降の成立であるか、または、記載内容が間違っているという可能性もあるものと考えます。二中暦に登場するその他の駒の動きの記述も考え合わせますと、後者の可能性(記載内容の間違い)が大きいかも知れません。


本稿の結論を、短くまとめるとしますと、以下のようになります。

二中暦の大将棋のところの記述は、「B級資料」だという可能性があります。。


1990年代、雑誌「詰棋めいと」には、将棋史の記事がいくつも掲載されていました。そこで使われていた「B級資料」という言葉をここで使わせてもらいました。二中暦の大将棋のところがB級資料だとすると、いろいろと問題になってくるでしょう。現状、二中暦の記述は、とにかく正しいものだとして取り扱われているからです。二中歴の記載が、黎明期の将棋の基本形であり、将棋の出発点だったとみなされているのです。本当にそうなのでしょうか。


二中歴の将棋は、どうも将棋の原点ではなさそうだというのが、今の私のスタンスです。この点は、研究者、愛好家の皆さんといっしょに、いずれきちんと検討されるべき課題だと思っています。