将棋に関連する古文書のことは、これまでに何回も書いてきましたが、まとめて見渡してみると、ひとつの明確な事実が浮かび上がります。この件、黎明期の将棋を考える上で、非常に重要でしょう。以下に、12世紀までの将棋関連の古文書を、成立順に並べます。
1)新猿楽記(11世紀)
2)長秋記(1129年):鳥羽上皇の前で占い
3)台記(1142年):崇徳上皇の前で将棋
4)建春門院中納言日記(1183年):八条院の前で将棋
5)明月記(1199年):九条兼実の前で将棋
6)明月記(1201年):後鳥羽上皇の行幸の折りに将棋
新猿楽記を別として、上記2)~6)で将棋に関わって登場する中心人物は、3人の上皇と、女院(上皇に準ずる待遇を受けた女性)と、九条兼実です。九条兼実も関白(天皇に代わって政治を行う)になった人物ですから、全員が日本の最高権力者ということになります。
残された記述だけを事実と見るなら、将棋をしたのは上皇だけ、天皇は将棋をしていないのです。当時、院政の時代だったわけですが、天皇でさえ将棋はできないと、そういう言い方をしてもいいのかどうか。
上皇だけが行う、天皇はしない。そういうものが、実は、将棋以外にもうひとつあります。熊野御幸がそれです。熊野詣をしたのは、上皇と女院だけです。熊野御幸は、平安時代、鎌倉時代のほぼ400年の間に、100回ほど行われたのですが、天皇は一度も熊野に出かけていません。白河上皇9回、鳥羽上皇21回、後白河上皇33回、後鳥羽上皇28回。
黎明期の将棋と熊野御幸、この2つを結びつける何かがあるのでしょう。ともあれ、上皇だけが関わったかも知れない将棋という遊び、それは、単なる遊びだったのだろうかという疑問は強くあります。摩訶大将棋の日月星辰、つまり、十二支ですが、これに気づいて以降、本ブログでは、黎明期の将棋は遊戯ではなかったのだろうと考えます。逆に言えば、これまでの将棋の歴史研究は、将棋=遊びという先入観にとらわれすぎているかも知れません。
さて、平安後期の歴代上皇は、次のとおりです。
白河上皇 <---- 鳥羽離宮(上皇の住まい)から駒が出土
◎鳥羽上皇
◎崇徳上皇
後白河上皇
◎後鳥羽上皇
土御門上皇 <---- 上皇の住居近くで奔獏の駒が出土
◎印は、古文書に将棋との関連が現れる上皇です。ここでは、後白河上皇は、まだ無印にしていますが、全くそうではありません。本稿、鳥獣戯画と将棋の関連について書くための序論です。投稿142)145)146)と続けた件、まだ書き終わってはいません。次の投稿は、後白河上皇についてです。後白河上皇は、原初摩訶大将棋に関わった人物だったかも知れません。