前稿の最後に、将棋からはじまり後白河上皇に延びる、次のようなつながりを書きました。
将棋 <---> 十二神将/薬師如来 <---> 鳥獣戯画 <---> 後白河上皇
このつながりの中で、最後の後白河上皇が重要です。後白河上皇がなぜそう書いたのか、なぜそういう行動をしたのかという点を掘り起こすことで、文献学だけからは得ることのできない情報をすくいあげることができるからです。以下、2件だけ書きます。
まず、梁塵秘抄口伝集・巻第十・その十六をご一読下さい。
www.geocities.jp/yassakasyota/koten/ryojin.pdf
現代語訳は、Webに多数上げられています。たとえば、
http://homepage3.nifty.com/false/garden/kuden/kuden10-16.html
後白河上皇が厳島神社に参詣したときの文章です。五常楽(ごじょうらく)と狛鉾(こまぼこ)の舞を、建春門院といっしょに見ています。この中に次のような一節があります。
伎楽の菩薩の袖ふりけむも、かくやありけんと覚えてめでたかりき。
(伎楽を奏でて菩薩が袖ひるがえし舞う姿も、こんなふうだったろう、と思うほど美しいものでした。)
ふたりが見ていた舞、五常楽と狛鉾は、雅楽の演目でした。しかし、後白河上皇は、その舞を見て、伎楽の舞に思いを馳せているのです。当時はもうほとんど舞われることのなかった伎楽のことを、なぜ思い起こすのか。皆さんはどう思われるでしょう。
なお、伎楽、雅楽、舞楽の詳細については、たとえば、次の文献を参照下さい。
民俗小事典 神事と芸能、吉川弘文館、439ページ、2010年10月
さて、別の舞を見ているのに、なぜ伎楽を思い起こして感動するのかという点ですが、その理由として、薬師経の次の一節が関係しているのだろうと考えます。薬師経については、たとえば、http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/yakushikyou.htmを参照下さい。
恭敬尊重以種種花香塗香末香燒香花鬘瓔珞幡蓋伎樂而爲供養
種々の花香、塗香、・・・、そして、伎樂を以って供養する、とあります。いわゆる十種供養のことであり、法華経にも類似の記述があります。薬師経は薬師如来を説くお経です。比叡山延暦寺の根本中堂の本尊が薬師如来ですが、その他にも、興福寺東金堂、薬師寺、醍醐寺、東寺金堂、法隆寺金堂も、本尊は薬師如来です。有名なお寺が多いですね。
ともあれ、後白河上皇が伎楽を思い浮かべたわけは、伎楽が薬師如来への供養であり、日常的に意識の中にあったからなのではと想像してみました。でなければ、当時もうほとんど舞われていない伎楽を思い浮かべる理由はないでしょう。
では、なぜ後白河上皇は薬師如来を供養するのでしょうか。これには、後白河上皇の次のような事情があります。後白河上皇は、長く頭痛に悩まされていたのですが、熊野参詣の折りに祈願すると、薬師如来に祈るようにとお告げがあったらしいのです。そこで、そのとおりにしたところ、頭痛が見事に治ったと言います。こういうこともあって、後白河上皇は、薬師経と薬師如来をとても信奉していたのではないでしょうか。
こういうわけで、伎楽は薬師如来への供養として、時代は隔てるけれども、後世の12世紀に蘇っていたのかも知れません。以上の観点を踏まえて、摩訶大将棋を見直してみますと、十二神将がいて、薬師如来たる天皇を守り、供養として伎楽もあり、天皇の行列の前には、狛犬舞と師子舞が舞っています。狛犬舞と師子舞もその起源は、伎楽へと辿りつくのです。
大型将棋の中で摩訶大将棋が一番はじめにあった云々は、すでに別の観点から結論していますが、本稿の流れで再考してみましても、結論は同じです。こんなに仕組まれた将棋が、もっと小さな将棋から駒を徐々に増やしていくことで完成したとは考えにくく、薬師如来の世界観でもってまずいきなり作られたと見ています。この世界観を前提にすれば、摩訶大将棋の創案者の候補も挙げることができますが、この件、また別稿にて書きます。
それと、後白河上皇と伎楽との関連でもう1件ありますので、このテーマ、次回もさらに続けます。将棋に伎楽面の駒が入っていた不思議さは、同じ盤面上に十二神将と薬師如来が存在していたことで、不思議ではなくなりました。そして、これらの件、鳥獣戯画と熊野御幸にもつながっていきます。