本稿のタイトルを、遊戯神通如来としましたが、
法海勝慧遊戯神通如来(ほうかいしょうえ ゆげじんづうにょらい)
がきちんとした名称です。遊戯神通(ゆげじんづう)を強調するために、少し短く、遊戯神通如来と書きました。薬師瑠璃光如来を薬師如来と呼ぶのに倣ったわけですが、このようにしてよいものかどうかはわかりません。
突然ですが、次の投稿を一読していただけるでしょうか。2014年8月の投稿です。その投稿から、今日がちょうど100回目の投稿となります。
摩訶大将棋のブログ_02
当時からすでに摩訶大将棋の対局が神事だということは確信していましたが、では、なぜ遊戯が神事たり得るのかが、実感としてはあまりよくわかっていませんでした。そんなとき、白川静の遊字論を読み、そこに探していた答えのようなもの、答えかも知れないものが書いてあったわけです。投稿107)を参照下さい。
さて、摩訶大将棋と薬師如来の話ですが、薬師如来が登場する以上、摩訶大将棋は薬師信仰に基づいたものであるはずです。ところで、七仏薬師(※注1)の存在をご存知でしょうか。薬師如来を主体として如来7体を並べて祈るのですが、その如来の最後7番目が薬師瑠璃光如来、そして、6番目が、本稿のタイトル、遊戯神通如来です。
織田仏教大辞典で「遊戯神通」を引くと次のようにあります。
「仏菩薩神通に遊んで人を化して以て自ら娯楽するを遊戯と云う」
つまり、将棋を指すのは対局する人なのですが、実際は、薬師如来が将棋を遊んでいます。摩訶大将棋を奉納するということはこういうことなのではないでしょうか。
遊字論と全く同じです。「遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。・・・・
それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。神とともにというよりも、神によりてというべきかも知れない。・・・」
神仏習合、神は薬師如来でもあります。私の思い描く神事としての摩訶大将棋、修法としての摩訶大将棋は、自分の言葉ではまだ表現できていませんが、織田仏教大辞典と遊字論の文章を借りるなら上述のようになります。
もちろん、一方で、摩訶大将棋は非常に面白い将棋です。というよりも、摩訶大将棋は面白くなければならないと言った方が正しいでしょう。なにしろ神様が遊ぶ将棋なのですから、面白くない将棋では神前に奉納することができません。面白いからこそ遊戯神通できる将棋となり得ます。
薬師信仰のツールとして将棋という遊戯が用いられたのは、七仏薬師の遊戯神通如来から来ているのかも知れません。薬師経や薬師信仰については勉強中です。この件また後日に取り上げます。
なお、七仏薬師の2番目の如来は、自在王如来(※注2)です。玉将の成り、自在王はこの如来を表現したものだと思われます。
※注1:七仏が薬師如来の分身かどうかは見解が分かれているそうです。
※注2:正しくは、宝月智厳光音自在王如来(ほうげつちごんこうおん じざいおうにょらい)です。
(2017.03.08 22:00)