タイトルに大地震と入れましたが、これは、正確には、天変地異のことです。ですので、大地震の他、大雨やその結果としての洪水等の大きな自然災害を含みます。
ところで、非常に極端な書き方をすれば、摩訶大将棋は、大地震を鎮めるための将棋です。金銀銅鉄石土の将の駒、つまり、地理の駒は、地面を鎮めるためだったと考えることができます。
将棋が神事であり修法であることは、前稿207)で少し書いたとおりで、供養具や法具を並べてお経をあげるのと、将棋で遊戯するのは、同じです。将棋の駒を供養具、法具と見立てて下さい。
薬師如来は、病気を治すということで知られているわけですが、それと並んで、天変地異を鎮める、国全体を護るというような国家鎮護の仏様でもあります。個人が祈願するのは病気のことですが、天変地異を鎮めるというような大きなことは天皇が祈願しています。天皇が行う薬師悔過については、現時点ではまだきちんとは書けませんので、後日ということにさせて下さい。
さて、本稿の仮説についてですが、金銀銅鉄・・という地理の駒が並ぶから大地震と関係があるのだろう、という単純な連想をしているわけではありません。
根底には、摩訶大将棋と薬師如来、薬師信仰が密接に関係しているという事実があります。本ブログでは、2年ほど前から、摩訶大将棋と薬師如来の結びつきについて断片的に投稿していますが、そろそろ固まってきていますので、きちんとまとめる段階に入りつつあります。先週の学会発表では、「摩訶大将棋と薬師如来:序報」というタイトルでの発表になっています。
摩訶大将棋 --> 薬師如来 --> 天変地異を鎮める --> 金銀銅鉄石土の駒が並ぶ
という展開です。ところで、関連するひとつの傍証があります。明月記の正治元年五月十日の条です。
自夜暁更甚雨如注、終日不休、河水大溢、依番為上格子参上、
殿下出御、於御前指将碁、国行被召合、三盤了、殿下御堂了退下
洪水が起こり、その報告に行きました。そして、将棋を・・・という文章です。この記述は、投稿195)でも話題にしており、「三盤了」の解釈についてはそこで書いています。この文章は、大将棋に関する記載例としてよく引用されるのですが、その際、将棋を指した云々の前の記述、つまり、洪水が起こったという件は、これまで問題にされたことがありません。しかし、ここで、洪水と将棋をセットにして捉えるのはどうなんでしょうか。洪水が起こったから、後鳥羽上皇は将棋(摩訶大将棋まはた大将棋)を指すように命じたとみるわけです。洪水を鎮めるための修法のようなものです。
地理の駒は最下段に並んでいますが、天変地異の「天」と結びつく駒は十二支の駒で、盤の上の位置に並んでいます。
本稿の考え方、いかがでしょうか。そういうこともあり得ると思われた方は、さらに、あと1点、関連する説明ができますので、下のリンクから続きを読んで下さい。
(2017.03.15 23:45)
以下、補足となります。
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天変地異と薬師如来が強く関連していることは、この次の投稿で書きますが、ここでは、大地震と摩訶大将棋の関連性、あり得るかも知れない関連性を書いてみます。
それは、秀次が、なぜ水無瀬兼成に大型将棋を依頼したのかということへの疑問から来ています。はじめの駒は1591年に出来上がっていますので、依頼は1590年前後だったでしょう。おそらく、水無瀬兼成はその依頼を受けて、大型将棋、特に、摩訶大将棋の文献を探し求めたのではないでしょうか。
時代は中将棋の全盛期も過ぎ、持ち駒ルールの小将棋が盛んになり出した頃です。そんな時代に、なぜ大型将棋の駒を発注したのかということです。博物学的な興味を楽しむような時代ではありません。それに、大型将棋の駒を求めたのは秀次だけでした。秀次以外の誰からも、大型将棋の駒は発注されていません。
ところで、秀次が駒を依頼する数年前、1586年に天正大地震がありました。10日以上も余震が続いたほどの大地震で、近畿地方は大きな被害を受けます。そこで、秀吉は、京都に大仏を建てることを決めたわけです。国家鎮護の意識があったのでしょう。一方で、秀次も、大地震を鎮めようとしたのではないでしょうか。摩訶大将棋の駒はそのための駒だったのではないかと。いかがでしょう、こういう想像は。
なお、秀次が呪術的なことを好んだかどうか。これはまだ調べていません。文化的な素養が豊かだったと言われる秀次ですので、天変地異を鎮める呪術としての摩訶大将棋のことを知っていた可能性がなくはないと考えます。
(以上、2017.03.15 23:45)
(以下、2017.03.19 00:55 追記)
洪水鎮圧と摩訶大将棋の関連については、投稿210)も参照下さい。