248)ある空想1:近江八幡にある摩訶大将棋の将棋盤

少し前の投稿で、摩訶大将棋の将棋盤は、平安京の碁盤目を模したものだろうという考えを紹介しました(投稿245:将棋盤と平安京を参照下さい)。同じように、長安の碁盤目が象棋の将棋盤を、大大将棋の将棋盤も平安京を模したように見えます。これらは、単なる一致にすぎないと見るかどうか。むしろ、仕組まれたものとする方が自然ではないでしょうか。陰陽道に基づいた平安京と、陰陽道の神事である摩訶大将棋の盤がそっくりだったとしても、それほどおかしくはありません。

 

一方で、摩訶大将棋は、天変地異を鎮める呪術だったわけですが(たとえば、投稿208)大地震と摩訶大将棋投稿237)天変地異と摩訶大将棋)、おそらくは、大地震や洪水を鎮めるための遊戯だったのでしょう。摩訶大将棋の成立の時期、それと、再登場の時期も、大地震の時期と平安京と碁盤目から推定してみようという試みが、本投稿の主旨です。詳しくは、かなり広い分野と関係し長くなりますので、本稿では、まず、近江八幡の碁盤目のことから書いていきます。

 

平安京の碁盤目と一番よく似ている碁盤目の町は、近江八幡です。下の図をご覧下さい。何をもってよく似ているかということですが、それは、摩訶大将棋の将棋盤が浮かび上がっているという点においてです。北方に位置する八幡山城(大内裏に相当)が朱雀大路相当の道を見通しており、南北方向の区画数はちょうど19です。

 

さて、この碁盤目を設計したのは、秀吉か秀次でしょう。1585年11月に八幡山城の建設が始まり、1587年9月に城下町(つまり、碁盤目)が完成したそうです。秀吉は、これ以前にも、長浜の城下町を作っていますが、長浜は、平安京の碁盤目とは全然似ていません。長浜と近江八幡の重要な違いは、近江八幡が天正大地震(1586年1月)の直後に作られた町だということです。近々の投稿でゆっくりと書いていきますが、秀吉が天正大地震の直後から作り始めたものは、この他に、京都の大仏と聚楽第があります。それが、摩訶大将棋とどんな関係があるのかと思われるかも知れませんが、本稿、このあたりで置きます。

 

以下、近江八幡の碁盤目です。ご参考まで。近江八幡の碁盤目、京都の大仏、聚楽第が作られた理由は、通常の学説どおりかも知れませんが、そうではなく、この3つは全部同じ理由で建設が開始されたのかも知れません。つまり、「地震を鎮めるための呪術」です。本稿では、ひとまず、「ある空想1」としておきます。詳細また後日の投稿で続けます。

(西暦が間違っているとのご指摘をいただきました。ありがとうございました! 年の箇所、3箇所を修正しました:2018年8月31日)

 

右の図は、現在の近江八幡の町割りです(google mapから抜き出しました)。近江八幡の古地図は、滋賀報知新聞の『「八幡町絵図」を文化財指定(平成21年3月24日)』のサイトを参照下さい。そこに八幡町絵図(近江八幡市所蔵)が掲載されています。1675年の絵図です。画像への直接リンクはここです

 

下の左図の赤枠が、碁盤目の街路の部分です。縦横比が平安京とほほ同じです。下の右図は、街路に合わせて、摩訶大将棋の将棋盤を組み入れた図です。