中国の象棋が交点置きなのに、平安将棋がそうでない理由(マス目の中に置く理由)については、これまで様々に議論されてきたように思います。しかし、それらは、いったんご破算と考えるべきではないでしょうか。平安将棋が将棋の起源だったと考えるよりも、摩訶大将棋を起源だとする方が、いろいろな点で合理的、納得がいく多くの結果が出ているからです。
ところで、実は、摩訶大将棋が交点置きだったという可能性があります。個人的には、残念ながら、という気持ちが強いのですが、仕方ありません。摩訶大将棋は将棋の起源だと思われますが、さらに、大型将棋そのものも、日本が発祥ではなく中国起源だという可能性もあるでしょう。摩訶大将棋が交点置きだったとなれば、その傍証になるかも知れません。もちろん、交点置きだったとしても、大型将棋が日本独自という可能性もありますが、宝応将棋が多数駒を暗示している以上、むずかしいと考えます(宝応将棋の件についても、後日きちんと投稿します)。
さて、投稿246)では、大大将棋が交点置きだったという可能性について書きました。では、なぜ大大将棋だけが特殊で、交点置きなのかと思われた方もおられたかと思います。この点については、平安京についてのある学説が正しいとするならば、大大将棋だけでなく、摩訶大将棋も交点置きだったことを導くことができます。
平安京は、開設当初は、今伝えられている街路よりも、南北方向にひとつだけ少なかったという説があります。つまり、途中で、ひとつ増やされたというわけです。平安京はどんどんと衰退してその領域が狭まっていったのにもかかわらず、大路が北側にひとつ増やされたらしいのです。この説が関連の学会でどの程度支持を受けているのかは今論文を読みつつ情報収集中です。
この説に従えば、9世紀の後半までは、北は土御門大路(これが一条大路に相当)までしかなかったそうです。つまり、大内裏は、道ひとつ分だけ南北方向に短くなっています。そして、この場合、大大将棋の初期配置の理由づけが、投稿246)の図で説明したものよりも、さらに明解になります。ですので、私は、この説は本当なのだろうと思っています。逆に、大大将棋の初期配置が、この説のひとつの傍証にもなりそうです。
一番下に、9世紀前半の平安京と大大将棋の初期配置の一部を置きます。大内裏から南の方を見ています。歩兵が大内裏(宮城)の外側に並び、象棋と同じ配置になることを確認下さい(投稿246では、大内裏の端の位置に並んでいます)。また、前旗の駒の位置が、ちょうど朱雀門の位置と一致します。前旗が朱雀門にあるというのは、まさにそのとおりなのではないでしょうか。
ところで、この説のとおりだとすれば、南北方向にマス目がひとつ少なくなりますので、投稿245に示されたように、19マスの長さの摩訶大将棋の将棋盤を取ることはできません。しかし、もし、摩訶大将棋が交点置きの将棋だったとすれば、交点はちょうど19、つまり、この場合でも、摩訶大将棋の将棋盤は平安京の中に存在しているのです。そして、平安京の道がひとつ増えたとき、摩訶大将棋は、交点置きからマス目の中に置く将棋となった、そう考えるわけです。この考えによれば、摩訶大将棋は、道が増えた時期には、すでに存在していたと結論できます。「9世紀後半には、摩訶大将棋は存在していた」ということですが、いかがでしょう。ひとまず、「ある空想2」としておきます。