前稿で、将棋の陰陽五行について書きましたが、その話は本稿と連動します。納得いただくためには、1)摩訶大将棋の陰陽五行を認め、2)二中歴の漢文の読み下しを再検討の上、3)二中歴の記述ミスを仮定する、という3段階を経なければなりません。長くなりますので、本稿では概要のみ書きます。この件、将棋の陰陽五行説の検証では、説明が一番むずかしいところでしょうか。銀将の動きは昔も今も同じだと、皆さん、思っているからです。
まず、二中歴から書きます(簡潔に)。有名な次の記述のところです。
金将不行下二目 銀将不行左右下
通説では、金将は下の二目に行かず、銀将は左右と下に行かず
という意味に読み、動きはずっと同じだったんだなあ・・と思ってしまうわけです。読む前から動き方の知識があり、それに引きずられます。
ところで、この読み方でいいのでしょうか?
金将のところで「下の二目」と読んだのであれば、銀将は「左右の下」と読んでもいいわけです。逆に、銀将のところで「左右と下」と読むなら、金将のところも「下と二目(どこの?)」と読むべきでは。平安時代の日本式漢文ですので、このあたりかなり融通をきかすことができて、それが後世に銀将の動きを誤らせることになったのでしょう。
直観的にわかりやすいのは、金鹿、銀鹿の動きを見ていただくことです。金の駒、銀の駒は、陰陽のペアで、動きが上下反転する設計になっています。下の図をご覧下さい。
金鹿と銀鹿は延年大将棋の駒です。問題の銀将の動きは、上図のとおりで、現代将棋の動きとは違います。陰陽のペアになっている駒は、初期配置で隣接、または、左右対称位置に置かれています。二中歴では「銀将不行左右上」と書かれるはずだったのではないでしょうか。不行左右下では、金将の動きです。金将の動きを2回くり返しています(二中歴は、平安大将棋のところでも、同じことを2回くり返えすミスがあります)。
なお、本稿をきちんと説明するためには、陰陽の分類、歩き駒のパターン、臥龍・蟠蛇・淮鶏の動きの検討を絡めた話が全体の半分以上になります。延年大将棋の記載も挙げる必要があります。投稿には長過ぎますので、これについては2月の発表時に。
次の投稿が、多少参考になるかも知れません。