右の図は、第一次平安京(瀧浪先生の説とは少しだけ違うのですが)を北の方から眺めたときの図です(上が南)。まだ学会発表していませんので、初出となります。摩訶大将棋の将棋盤と思って下さい。
さて、反駁論文には「文献史学,考古学の研究成果からすれば、平安宮の拡張説はおろか、平安京の拡張説は成立しがたいものである。」と書かれています。しかし、この記述は仕方のないところかも知れません。これまでの文献史学と考古学の成果から考えれば、第一次平安京は成立しないという可能性もあるのですが、結論から言いますと、文献史学と考古学から導かれた結論の方が、実は間違っていたという可能性が大きいと考えます。秋の学会発表でこの件ははっきりとするでしょう。
以下、である調で書きます。
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復刻本では、第一次平安京が大型将棋(摩訶大将棋と大大将棋)の将棋盤としてちょうどぴったりの条坊を持つことを指摘した。さらに、摩訶大将棋については、第二次平安京も将棋盤に写したと考えた(*注)。これが、摩訶大将棋の駒の、交点置きからマス置きへの移行を説明する。中国象棋は交点置き、将棋の駒はマス置き、この謎の説明はこれまでに一度もなされておらず、本論がはじめてではないだろうか。
このときに重要になるのは、摩訶大将棋に内在する大きな呪術性である。呪術でなければ、摩訶大将棋の将棋盤が、第一次平安京に合致し、そして、第二次平安京にも合致するということは考えられない。また、このことは、平安京の条坊自体が大きな呪術であることの証拠でもある。これまでの平安京の研究では、平安京のもつ呪術性をほとんど考慮せずに、復原がなされてきた。この結果として、第一次平安京の実体が隠されたままの状態になっているのである。
この詳細は非常に長い内容であるため、ここでは1例だけ挙げることにしたい。平安京の発掘調査より、朱雀門(平安宮の南端)から昭慶門(大極殿院の北端)までの距離が、200丈というきれいな整数値(完数)になることがわかっている。このことからも、平安宮は意図された設計のもとに作られたことがわかるのであるが、実は、このような完数は、現在までの調査では、朱雀門-昭慶門の間の距離にしか現れていない。つまり、考古学的には未発見なのである。もし、平安京/平安宮の造営が呪術だとすれば、設計上の完数は、平安宮の中心、最も重要な建造物である大極殿の位置に現れなければならない。
短く結論のみ書くと、大極殿の位置がきちんとした完数を示すことが見つかったのである。これは、大極殿の位置だけでなく、その他のいろいろな位置や大きさも平安京=呪術の都であることを裏付けている。このことが、平安京ときれいに対応している将棋盤の呪術性を示すことになっている。
反駁論文では、摩訶大将棋と大大将棋で、平安京の条坊との対応が違っている(つまり、対局の向きが異なっていること)に対して、論理に一貫性がないと指摘する。が、摩訶大将棋と大大将棋の違いは、小将棋や象棋の将棋盤とも合わせて考えれば、非常に納得のいく結果となる。まとめると次のようである。
・平安小将棋、象棋、大大将棋は南北で対局し、交点置きの将棋である。
・摩訶大将棋は当初、交点置きであったが、第二次平安京以後、マス置きとなる。
・摩訶大将棋(マス置き)-->大将棋-->平安大将棋はマス置きで、東西の対局である。
対局に方向のあること自体が呪術であることの現れであろう。対局の向きの違いは、現状、対局者が、天子なのか天帝(の代理)なのかの違いを想定しているが、このあたりは道教の思想と深く関連しているため、現在勉強中です。
平安京の話しをしているのに、なぜ、中国象棋が出てくるのかと思われるかも知れない。このことは、将棋から象棋への伝搬である可能性を示すものである。象棋の盤だけでなく、象棋の駒についても、将棋-象棋の対応がつくため、この仮説は正しいのだろうと考えている。この文献学的な立証が、前稿284)で示した二中歴の平安大将棋の記述である。
*注)学会発表前であり、現時点では個人的見解ということになるが、平安京建設時の平安京(第一次平安京)は、9世紀後半になって北側に2町分拡張された可能性が非常に大きいと考えている。平安京が拡張したというアイデアは1984年に提起されたものの(元のアイデアは平安宮の拡張。拡張後の平安京が第二次平安京)、いまだ結論は出されていない。反駁論文は、この拡張自体がなかったとする立場(第一次平安京は存在しないとする立場)に立っており、この立場は、現時点では考古学関連学会の多数意見でもある。ただし、第一次平安京に難点を示す論文や単行本の解説には、第一次平安京を却下するほどの決定的な根拠は見られず、未解決のままであることも頷ける。