大型将棋の根底にある思想は、仏教思想ではありません。摩訶大将棋起源説反駁の論文に対して、どこか1点、大きく反論するとすれば、次の箇所になるでしょう。最終章:まとめの箇所の第2段落の最後の部分です。次のように書かれています。
「・・・もちろん摩訶大将棋創作時に陰陽五行思想は日本文化に取り入れられていたのだからそれが、直接的、間接的に利用はされたものの、仏教思想の影響をより強く考慮すべきであろう。」
原初の将棋が、仏教思想の影響をほとんど受けていないことは、駒の種類、将棋盤、将棋のルールから明解に説明することができます。一方、原初の将棋に仏教思想が現れていることの説明は、非常に無理がありそうに思われます。
以下、である調で書きます。
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摩訶大将棋の駒の名称を見ると、将棋は、何となく仏教と関連しているのかも知れないという印象を受けてしまうわけであるが、それは単なる印象であって、学術的な根拠とするのはむずかしい。このことは、たとえば、玉金銀桂香を仏教の五宝に対応づけるという説明や、酔象の駒を仏教の経典と関連づける説明についても同様である。そういう説明は、単に名称だけで繋がる関係であって、だから、どのようにでも補強できるし、逆に、どのようにも反論できるものなのである。
名称だけの関連性から、仏教-将棋の関連説がどのように補強できるかについては、反駁論文の参照文献リストを参照されたい。しかし、こうした方法では、説明が可能というだけであり、ある人々はその説に賛成し、ある人々は別の理由でもってその説に反対する。賛成または反対という話しであって、学術の議論には遠い。
議論の題材にするためには、名称以外の、少なくとも異なる3方向ぐらいからの検証を絡める必要があるのではないか。名称による説明は、どれも単発にすぎるのである。だから、別の説明でもって一刀両断できてしまう。また、名称だけからの説明では、「仏教思想」との関連までを結論するのは無理ではないだろうか。最終的に仏教思想までを想定する場合、名称ではない、何か別の題材が求められる。
大型将棋が仏教思想とは全く無縁であることを説明するには、まず間接的に、仏教ではなく道教の思想が将棋には盛り沢山であることを示すのが早いだろう。この件は後日の別稿にゆずるが、ともあれ、仏教思想がないという点は、将棋史解明の大きなヒントとなる。将棋を作った人物にとっては、そして、作られた当時は、仏教よりも道教がずっと支配的だったのである。そうすると、人物も時期もかなり限定される。また、将棋は僧侶が中国から持ち帰ったという説も出されているが、この可能性はほぼなくなるであろう。
本稿は、反駁論文に対する返答という観点で書いているため、以下、将棋と仏教との関連説に対しての難点を概略したい。
提婆(裏:教王)、無明(裏:法性)の駒について
5年ほど前までは、これらの駒の存在から、摩訶大将棋は法華経からであろうと思っていた。この2駒は、鎌倉時代に、おそらく日蓮宗の僧侶が、左将と右将を置き換えたものである。この結論は、1)駒の動き、2)提婆と無明の成りのタイミング、の2つルールが、原初の将棋のルールと全く異なることからも明らかである。(この説明はかなり長くなるため、後日、別文献を紹介する)また、教王(法華経)と法性(仏)の駒がほぼ無敵すぎることからも、仏教伝道のためのツールとして摩訶大将棋を利用したものと考える。
玉金銀桂香の駒を五宝と見ることについて
摩訶大将棋が起源の将棋である場合、もちろん、この説は全く成立しない。したがって、起源の将棋が小将棋か大将棋かという議論の中では、この説での反論は意味をもたないであろう。ここでは、仮に、原初の将棋が小将棋だと想定した上で、反論を列挙したい。
1)続いて成立する平安大将棋に、銅将、鉄将が五宝の間(金銀と桂香の間)に挿入されるため、名称を仏教に求める意味合いが非常に弱くなる(仏教思想にまではとてもいきつかない)。
2)玉金銀銅香という配置を持った小将棋の存在可能性が大きいため(色葉字類抄からの知見:論文未発表)、五宝自体がなくなる。
3)将棋のルールの中に、五宝を貴重に取り扱うような(有難く想うような)ルールがなく、駒を五宝の名称とした実質的な意味が不明である。
というように、どうにでも説明ができる問題は、どうにでも反論もできるという結果になり、いわゆる水掛け論となってしまう。
水掛け論と言えば、研究のかなり早い時期、本ブログにて、摩訶大将棋には十二支の駒が含まれている、だから、この将棋は呪術であると主張したときの状況によく似ている。そのとき、個人的には、1)十二支のことが象戯圖の冒頭に記述があり、2)そのとおり、天文の駒として上方に駒が配置され、3)中国の文献にも類似の記述があることから、この十二支の駒説はほぼ確定だろうと思ったものである。しかし、十二支の駒には、当時、卯と未に対応する駒がなく10種の駒だけがあった。だから、反対の人たちからは、十二支のうち10しかないので十二支とは言えない!と言われたのである。しかし、古文書には、はっきりと駒は十二支を模した、と書いてあるし、十二支のうち10枚も見つかれば、あとの2枚は何かの事情で駒名が変わったのだろう、だから問題ないだろうと思ったものである。
少し後になって、驢馬の駒が卯に相当する駒だとわかったときはうれしかった。驢馬は、平安時代の辞典には、うさぎうまと訓読みされていたのである。それで12枚のうち11枚が揃ったのだが、ある占い師の方からは、ちがう!十二支ではない!という反論をもらったわけである。というふうに、文献の記述まで揃っていても、反対の人は反対なのである。私は12枚のうち11枚も揃っていたら文献がなくても、十二支だと思うタイプであるが、上の占い師のようなきびしい審判がいるとすると、駒の名称のことだけで、将棋と仏教の関連を結論するのはきびしいことがわかる。
さて、その占い師の方は今どうされているのだろう。十二支の件、次のような発展をみている。
1)駒の動きと駒の初期配置から、十干に相当する駒と、陰陽の駒が見つかった。
2)十二支の駒と十干の駒を組み合わせることで、六十干支の表を構成することができた。
3)六十干支の表は、摩訶大将棋だけでなく、大大将棋でも、作ることができた。
4)将棋には対局の方向が規定されている。その際、駒の名称の色は、対局の方向とよく一致している。これもまた将棋の陰陽五行思想の一部である。
5)中国象棋にも、同様の対局の方向と駒の色との対応が見られる。
6)古代の都城(道教の思想が非常に強い)と将棋盤のマスの数が一致する。
このように、駒の中にきちんと12枚の十二支があるかどうかはもはや些細である。今もまだ未(ひつじ)の駒は不明のままで11枚の十二支なのであるが、何かの事情で、もともとは存在したはずのひつじは別の駒と置き換わったのである。左将と右将が、提婆と無明に置き換わったのと同じで。つまり、ひとつひとつの観点で細部までの厳密性は必要ではないが、多くの観点を調べてみたときに、それぞれが全部同じ方向を向いているということが重要である。将棋のもつ陰陽五行思想は、この意味では、もう100%近く正しいだろう思うが、人文科学は最終的には個々人の思いが混じった上での判断ということで最近は了解している。自然科学とは大きく違う。
本稿では、将棋が遊戯であり、かつ呪術であるとは、どういうことなのかを考えていくはずが、論点もはずれたままの乱文となってしまってます。ですが、長いので、いったんここで置きます。